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ヤスパース 『原子爆弾と人間の未来』 における哲学と宗教

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KURENAI : Kyoto University Researc<br />

Title <strong>ヤスパース</strong>『 原 子 爆 弾 と 人 間 の 未 来 』における 哲 学 と 宗<br />

教<br />

Author(s) 藤 田 , 俊 輔<br />

Citation 宗 教 学 研 究 室 紀 要 (2013), 10: 70-87<br />

Issue Date 2013-11-29<br />

URL<br />

http://hdl.handle.net/2433/179577<br />

Right<br />

Type<br />

Departmental Bulletin Paper<br />

Textversion publisher<br />

Kyoto University


<strong>ヤスパース</strong>『 原 子 爆 弾 と 人 間 の 未 来 』における 哲 学 と 宗 教<br />

藤 田 俊 輔<br />

Philosophie und Religion in Karl Jaspers' Die Atombombe und die Zukunft des<br />

Menschen<br />

Shunsuke FUJITA<br />

Jaspers veröffentlichte einst die drei Bücher von den Fragen der gegenwärtigen<br />

Zeit : Die geistige Situation der Zeit (1931), Vom Ursprung und Ziel der<br />

Geschichte (1949), Die Atombombe und die Zukunft des Menschen (1958). Das<br />

gemeinsame grundsätzliche Thema in diesen Büchern besteht darin, dass die<br />

jetzigen Menschen in der modernen Gefahr die neue Chance wahrnehmen. Es<br />

handelt sich hier gleichsam um das Menschsein. Nach Jaspers sind es die<br />

Philosophie und die Religion, die den ganzen Menschen ergreifen können.<br />

Es ist beachtenswert, dass Jaspers die Probleme der gegenwärtigen Zeit in den<br />

besagten Werken nie behandelt, ohne von der Philosophie und Religion zu reden.<br />

Denn es bedarf laut Jaspers nicht nur der Philosophie, sondern auch Religion für<br />

alle, um die Gefahr zu überwinden. Trotzdem scheint man bisher nicht einheitlich<br />

die Frage der Philosophie und Religion in den besagten Werken erörtert zu haben.<br />

Vor allem ist die wichtige Rolle der Religion in der gegenwärtigen Gefahr<br />

übersehen worden.<br />

In diesem Beitrag versuchen wir die Frage der Philosophie und Religion gemäß<br />

dem reifen Werk Die Atombombe und die Zukunft des Menschen zu erklären.<br />

Jaspers hat den Vorsatz in diesem Werk, die Gefahr zur Chance zu wenden, indem<br />

die jetzigen Menschen die Revolution der Denkungsart in der Umkehr vom bloßen<br />

Verstandesdenken zum umgreifenden Vernunftdenken herbeiführen. Das heißt, es<br />

geht um die Umwendung des Denkens zur Vernunft, mit der die Menschen selbst<br />

sehr gründlich verwandelt werden. Dieses Vernunftdenken der Philosophie bietet<br />

auch der kirchlichen Religion die Denkungsart für die Verwandlung an. Durch die<br />

sorgfältige Interpretation der Philosophie Jaspers’ möchten wir Klarheit über die<br />

Chance der Rettung verschaffen.<br />

- 70 -<br />

宗 教 学 研 究 室 紀 要 vol. 10, 2013


はじめに<br />

かつて、<strong>ヤスパース</strong>は 三 つのまとまった 現 代 論 を 世 に 送 り 出 した。 年 代 順 に 追 って 言 え<br />

ば、まず 1931 年 に『 現 代 の 精 神 的 状 況 』( 以 下 、『 状 況 』と 略 記 )が、そして 1949 年 に<br />

『 歴 史 の 根 源 と 目 標 』( 以 下 、『 歴 史 』と 略 記 )が、さらに 1958 年 に『 原 子 爆 弾 と 人 間 の<br />

未 来 』( 以 下 、『 原 爆 』と 略 記 )が 出 版 されるに 至 るが、これらの 著 作 に 共 通 しているの<br />

は、 現 代 の「 危 機 (Gefahr)」を 真 っ 向 から 見 据 える 中 で「 好 機 (Chance)」を 掴 み 取 っ<br />

てゆこうとする 態 度 である。<br />

ここで 特 に 注 目 すべきなのは、 現 代 の 危 機 を 暴 露 するこれらの 著 作 においては 必 ずと 言<br />

っていいほど 哲 学 と 宗 教 の 問 題 が 論 じられている 点 であり、しかもこの 両 者 が 共 に 現 代 の<br />

危 機 を 乗 り 越 えるために 必 要 な 存 在 であると 考 えられている 点 である。 外 面 的 な 仕 方 で 両<br />

者 を 性 格 づけるならば、 宗 教 は 祈 り、 礼 拝 、 啓 示 、 権 威 、 従 順 、 教 会 、 教 義 、 神 学 などに<br />

よって、 一 方 で 哲 学 は 自 主 独 立 性 、 自 らの 責 任 を 負 う 単 独 者 としての 実 存 、 自 己 存 在 の 自<br />

由 などによって 規 定 されていると 言 えるが(I, 315f.)、しかし 本 来 「 宗 教 と 哲 学 がそれ 自<br />

身 である 当 のものは、 可 能 的 な 知 識 や 理 解 の 対 象 ではない」(I, 294)と 考 えられることか<br />

らして、「 両 者 を 見 渡 し 得 るようなどんな 立 場 も 存 在 しない」(I, 293)のであり、また「 哲<br />

学 と 宗 教 との 対 立 の 外 にはいかなる 立 場 もない」(PG, 60)とされる。つまり、 真 に 信 仰<br />

というものが 問 題 になっているところでは、 哲 学 と 宗 教 との 対 立 の 外 に 立 つような 第 三 者<br />

の 観 察 的 な 立 場 は 存 在 しないと 考 えられている。それゆえ<strong>ヤスパース</strong>にとっては、 宗 教 の<br />

存 在 はどこまでも 哲 学 の 立 場 から 扱 われるべきものとなる。<br />

、、<br />

G・マンが 指 摘 しているように、 先 述 した 現 代 論 に 関 する 著 作 群 の「 根 本 問 題 は、 今 日<br />

、、<br />

、、<br />

人 間 が 何 であるのか、 今 日 何 が 人 間 を 脅 かしているのか、 今 日 人 間 は 何 であり 得 、 何 でな<br />

ければならないのかということ 1 」に 他 ならないが、これらの 著 作 群 においては 哲 学 のみで<br />

なく 宗 教 もまた、この 根 本 問 題 に 関 与 し 重 要 な 役 割 を 担 うものとして 考 えられていると 言<br />

い 得 る。それにもかかわらず、これまでの 研 究 史 を 見 る 限 り、この 観 点 から 上 記 の 著 作 群<br />

を<strong>ヤスパース</strong> 思 想 の 発 展 段 階 に 即 して 統 一 的 に 解 釈 したものは 皆 無 であったと 言 わざるを<br />

得 ない。 恐 らくその 理 由 は、これまでの 研 究 史 においては、 上 記 の 著 作 群 で 提 示 されてい<br />

る 哲 学 の 役 割 にもっぱら 関 心 が 集 中 し、 宗 教 の 役 割 にはほとんど 注 意 が 向 けられてこなか<br />

ったからであろうと 考 えられる。それゆえ、 宗 教 が<strong>ヤスパース</strong>の 現 代 論 の 枠 組 み 内 で 持 つ<br />

意 義 に 関 してあまり 注 意 が 払 われてこなかったのも、 何 ら 不 思 議 なことではないと 言 える。<br />

そこで 本 稿 の 課 題 としたいのは、『 状 況 』ならびに『 歴 史 』の 思 索 過 程 を 経 て 辿 り 着 い<br />

た<strong>ヤスパース</strong> 晩 年 の 現 代 論 『 原 爆 』に 焦 点 を 当 てることにより、そこでの<strong>ヤスパース</strong>が 現<br />

代 の 危 機 に 対 する 哲 学 と 宗 教 の 役 割 を、また 両 者 の 関 係 をどのようなものとして 考 えてい<br />

- 71 -<br />

宗 教 学 研 究 室 紀 要 vol. 10, 2013


たのかを 明 らかにすることである 2 。 本 稿 の 成 果 によって、 主 に 政 治 哲 学 の 枠 組 みにおいて<br />

読 まれてきた 感 の 強 い『 原 爆 』の 中 に、 宗 教 哲 学 に 寄 与 し 得 る 思 索 の 在 り 方 が 読 み 取 られ<br />

ることになるであろう。<br />

考 察 の 手 順 としては、まずは『 原 爆 』における 危 機 とそこからの 転 換 について 見 ること<br />

によってこの 著 作 の 根 本 的 なモチーフを 確 認 し(I)、 次 にこの 成 果 を 踏 まえた 上 で、 哲 学<br />

と 宗 教 が 現 代 の 危 機 に 対 して 持 つ 役 割 ならびに 両 者 の 関 係 について 明 らかにすべく、 初 め<br />

に 理 性 と 宗 教 との 関 係 を 見 ておき(II)、そこから 暗 号 の 多 義 性 と 宗 教 の 問 題 を 取 り 扱 う<br />

(III)。 続 いて、この 暗 号 の 多 義 性 というキーコンセプトを 軸 として、 教 会 的 宗 教 におけ<br />

る 危 機 と 好 機 という 問 題 の 要 点 を 洗 い 出 し(IV)、 最 後 に、この 好 機 というものが 教 会 的<br />

宗 教 のいかなる 変 化 によって 訪 れ 得 るのかという 問 題 に 関 して、 立 入 った 考 察 を 試 みる<br />

(V)。<br />

I. 『 原 爆 』における 危 機 と 転 換<br />

『 原 爆 』という 書 物 の 序 は、 次 のような 言 葉 で 始 められている。「 一 つの 全 く 新 しい 状<br />

況 が 原 爆 によってもたらされている。 全 人 類 が 肉 体 的 に 破 滅 することになるか、それとも<br />

人 間 が 自 らの 道 徳 的 ‐ 政 治 的 状 態 において 変 化 することになるかのどちらかなのである。<br />

私 の 書 物 は、こうした 二 重 の 仕 方 で 非 現 実 的 に 思 える 二 者 択 一 を 明 瞭 にすることを 試 みる<br />

ものである」(A, 5)。<br />

この 書 物 の 題 名 からも 察 せられる 通 り、ここでは 原 爆 による 全 人 類 の 破 滅 が 決 定 的 な 危<br />

、、、、、、<br />

機 として 意 識 されているのであるが、これと 同 等 の 重 みをもつ 危 機 として「 全 体 主 義 的 支<br />

、<br />

配 」(A, 22)が 挙 げられている 点 にも 注 意 が 必 要 である。つまり、 原 爆 の 危 機 に 面 しては<br />

、、、、、、、<br />

「 現 存 在 」が、そして 全 体 主 義 の 危 機 に 面 しては「 生 きるに 値 する現 存 在 」が 脅 かされて<br />

いるのであり、いまやこれら 両 者 は 相 即 不 離 の 仕 方 で 結 び 合 わされて、 現 代 の 状 況 を 規 定<br />

しているものとなっている(ibid.)。しかし『 原 爆 』では、これらの 危 機 を 技 術 的 に 克 服<br />

することが 問 題 となっているのではない。H・ビーレフェルトが 指 摘 しているように、「 社<br />

会 的 な 生 活 の 問 題 を 他 との 関 連 なしに≪ 技 術 的 ≫に 解 決 することではなく、 結 局 は 人 間 存<br />

在 の 全 体 が<strong>ヤスパース</strong>にとって 問 題 となっているのである。つまり 人 間 の、 個 人 と 共 同 体<br />

の、 尊 厳 、 自 由 、 未 来 が 問 題 となっているのである。それゆえ 政 治 的 な 問 題 は、 哲 学 の 根<br />

本 問 題 と 最 も 密 接 に 関 連 している 3 」。<br />

『 原 爆 』では、それ 以 前 の 著 作 に 比 してより 一 層 現 代 の 危 機 が 差 し 迫 ったものとして 意<br />

識 されており、 人 類 破 滅 の 脅 威 に 瀕 した 現 代 人 に 対 して 根 本 からの 変 革 が 要 求 されている。<br />

- 72 -<br />

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<strong>ヤスパース</strong>によれば、 原 爆 と 全 体 主 義 によってもたらされた 危 機 的 状 況 を 打 開 するには、<br />

、、、、、、、、、、、 、、、 、、、、、、、、<br />

「 全 歴 史 の 転 回 点 となるほどまでに 人 間 自 身 が 自 らの 道 徳 的 ‐ 理 性 的 ‐ 政 治 的 現 象 におい<br />

、、、、、、、、 、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、<br />

て 変 化 するという、そういう 深 いところから 現 れるに 違 いない 人 間 の 諸 力 」(ibid.)が 必<br />

要 なのであるが、そもそもこれを 生 み 出 す 契 機 として 求 められてくるのが、「 外 的 な 生 産<br />

における 思 惟 から 内 的 行 為 における 思 惟 への、すなわち 悟 性 から 理 性 への 転 回 点 (あるい<br />

は 転 換 、 変 化 、 飛 躍 )」(A, 6)を 経 る 中 で、 我 々 各 人 が 自 分 たちの「 考 え 方 の 革 命 」(A,<br />

22f.)を 起 こすことに 他 ならない。これは 特 に「 転 換 (Umkehr)」と 表 現 されることが 多<br />

く、『 原 爆 』での 根 本 テーマとなっているものであるが、しかしこうした 転 換 とは 具 体 的<br />

にどのような 事 態 なのか。<br />

ここでの 転 換 とは、 端 的 に 悟 性 的 思 惟 から 理 性 的 思 惟 への 転 換 であると 言 えるが、この<br />

両 者 の 区 別 は「あらゆるものを 包 括 する 意 義 を 持 っている」(A, 25)とさえ 言 われるほど<br />

、、<br />

重 要 な 位 置 を 占 めている。<strong>ヤスパース</strong>によれば、「 悟 性 の 思 惟 とは 発 明 し 製 作 する」もの<br />

であり、この「 悟 性 の 諸 々の 指 示 は 練 り 上 げられて、 際 限 のない 繰 り 返 しによって 製 作 を<br />

増 大 することができる」のであるが(ibid.)、こうした 悟 性 において 形 成 された 世 界 にあ<br />

っては、「 大 衆 が 機 能 として 実 施 に 役 立 っている」(A, 26)とされている。また、「 科 学<br />

は 悟 性 の 事 柄 」であると 言 われるように、 科 学 の 諸 成 果 が 万 人 に 承 認 されるのは、 悟 性 と<br />

いう「 人 間 の 思 惟 能 力 の 一 致 点 」によっている(A, 290)。<br />

、、<br />

一 方 で「 理 性 の 思 惟 とは、 大 衆 の 指 図 に 従 っての 実 施 というものを 可 能 にするのではな<br />

く、むしろ 各 人 に 対 して、その 一 人 ひとりが 自 分 自 身 として 考 え、 根 源 的 に 思 索 すること<br />

を 要 求 する」ものなのであるが、「ここでは、 真 理 は 任 意 に 繰 り 返 し 得 る 機 械 装 置 によっ<br />

て 証 明 されるのではなくて、 各 人 が 自 分 自 身 として 遂 行 し、それによって 他 者 と 共 に 一 つ<br />

の 共 通 の 精 神 を 実 現 するような 決 断 、 決 意 、 行 為 を 通 して 証 言 される」と 考 えられている<br />

(A, 26)。<br />

以 上 のような 区 別 の 提 示 により、 単 なる 悟 性 的 思 惟 から 包 括 的 な 理 性 的 思 惟 への 転 換 が<br />

喚 起 されているのであるが、しかしここでは 悟 性 を 否 定 することではなく、むしろ 悟 性 を<br />

理 性 の 内 に 維 持 することが 求 められている。つまり、 人 類 の 救 済 のためには 有 限 な 悟 性 的<br />

思 惟 だけをもってしては 不 可 能 なのであり、むしろそれを 超 越 した 実 存 の 理 性 的 思 惟 が、<br />

有 限 な 悟 性 を 指 導 していく 根 源 的 なものとして 取 り 返 される 必 要 があると 考 えられている<br />

のである 4 。<strong>ヤスパース</strong>によれば、この 意 味 で 理 性 はまさに「 超 政 治 的 なもの(Das<br />

Überpolitische)」に 他 ならず、これが 根 源 となって「 政 治 的 なもの」が 本 来 的 な 仕 方 で 導<br />

かれることになる。『 原 爆 』では、この 理 性 を 根 源 として、さらに「 道 徳 性 (Moralität)」<br />

と「 犠 牲 心 (Opfermut)」が 超 政 治 的 なものとされ、これらの「 超 政 治 的 なものが 政 治 に<br />

おいていかに 効 果 を 発 揮 するかが、 政 治 そのものにおける 基 礎 力 になる」(A, 74)とされ<br />

ている。<br />

- 73 -<br />

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上 記 で 見 た 悟 性 と 理 性 の 区 別 は 様 々な 思 想 的 成 果 をもたらすと 考 えられるが、 恐 らくヤ<br />

スパースがこの 区 別 によって 最 も 強 調 したいのは 次 の 点 である。すなわち、 確 かに 悟 性 に<br />

もとづいて 我 々は「あらゆる 技 術 的 なものや 原 爆 を 一 致 して 理 解 する」ことができるので<br />

あるが、しかしこの「 悟 性 によってもたらされた 一 致 とは 強 制 的 な 認 識 の 一 致 であって、<br />

これは 人 間 を 結 合 するのではない」のであるから、「 人 類 の 統 一 が 諸 科 学 によって 促 進 さ<br />

れて、 最 終 的 には 人 類 の 統 一 が 実 現 されるなどと 考 えることは 誤 謬 5 」に 過 ぎず、むしろ「 理<br />

性 にして 初 めて、 人 間 をその 本 質 の 全 体 において 結 合 することができる」という 点 である<br />

(A, 290)。<br />

近 代 以 降 、 悟 性 の 働 きによって 促 進 され 急 成 長 を 遂 げてきた 科 学 技 術 に 支 えられる 中 で、<br />

地 球 上 のいたるところで 交 通 ・ 通 信 手 段 が 高 度 に 発 展 し、いわば「 空 間 的 な 意 味 での 地 球<br />

の 統 一 」(UZG, 193)が 現 代 世 界 において 実 現 を 見 たと 言 える。 我 々は、 自 分 たちがこの<br />

統 一 された 地 球 の 中 に 存 在 し、また 原 爆 と 全 体 主 義 という 地 球 規 模 での 危 機 に 瀕 している<br />

ことを 悟 性 によって 理 解 することができる。また、こうした 世 界 内 で 出 会 われる、 自 分 と<br />

は 異 なった 文 化 や 宗 教 にある 人 々の 存 在 をも 我 々は 認 め 理 解 するが、しかし 上 記 のような<br />

性 格 しか 持 ち 得 ない 悟 性 という 有 限 的 思 惟 のみに 頼 っては、この 地 球 の 統 一 を 基 礎 として<br />

生 み 出 されるべき「 人 類 の 統 一 」を 実 現 していくことは 不 可 能 であろう。というのも、「 単<br />

に 悟 性 と 悟 性 とを 一 体 化 させるのではなく、 人 間 と 人 間 とを 一 体 化 させるものにおける 結<br />

合 のみが、 平 和 をもたらし 得 る」(A, 119)と 考 えられるからである。<strong>ヤスパース</strong>によれ<br />

ば、「 救 済 の 諸 々の 好 機 」(A, 319)はまさに 理 性 の 考 え 方 から 生 じてくる。「しかるに<br />

悟 性 はその 科 学 的 かつ 技 術 的 な 思 考 の 仕 方 において、 独 力 では 我 々 人 間 が 生 み 出 したもの<br />

を 支 配 することができないので、それを 遂 行 し 得 るのは 包 括 的 な 理 性 でなければならない」<br />

のであり、まさにこの「 理 性 のみが、 生 み 出 されたものに 太 刀 打 ちできる」とされている<br />

点 に、 理 性 への 信 頼 が 込 められている(ibid.)。<br />

現 代 に 関 する 哲 学 的 思 索 の 出 発 点 となった『 状 況 』では、 人 間 の 救 済 の 問 題 は 実 存 やそ<br />

れにもとづく 信 仰 の 立 場 から 考 えられていたが、『 歴 史 』に 至 っては 後 期 <strong>ヤスパース</strong>の 思<br />

索 を 代 表 する 哲 学 的 信 仰 や 理 性 の 立 場 からより 広 い 視 点 で 救 済 の 問 題 が 論 じられるように<br />

なり、『 原 爆 』に 至 ってはこれらの 著 作 が 踏 まえられた 上 で、 原 爆 と 全 体 主 義 の 脅 威 にあ<br />

る 現 代 人 が、 理 性 により 根 本 的 に 転 換 を 果 たす 必 要 性 が 特 に 強 調 されることになる。つま<br />

り『 原 爆 』では、「 理 性 的 実 存 」(A, 315)や「 理 性 の 哲 学 的 信 仰 」(A, 369)といった 表<br />

現 が 見 られるように、これまでの「 実 存 」や「 哲 学 的 信 仰 」という 考 え 方 が 保 持 されつつ、<br />

それらとの 協 働 において 理 性 が 果 たす 役 割 に 焦 点 が 当 てられることにより、 救 済 の 問 題 が<br />

取 り 扱 われているわけである。<br />

以 上 に 見 てきたように、 単 なる 悟 性 的 思 惟 から 包 括 的 な 理 性 的 思 惟 へと 転 換 することの<br />

中 に、 現 代 の 危 機 を 好 機 へと 転 化 させる 可 能 性 が 見 出 されている。ここでは 先 述 の 通 り、<br />

「 一 人 ひとりが 自 分 自 身 として 考 え、 根 源 的 に 思 索 すること」が 要 求 されるのであるが、<br />

- 74 -<br />

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<strong>ヤスパース</strong>はこうした 理 性 的 思 惟 に 哲 学 の 立 場 を 置 き、まさにこの 立 場 から、 救 済 の 問 い<br />

を 巡 って 宗 教 を 問 題 とするのである。 以 下 に 続 く 諸 考 察 では、 両 者 が 現 代 の 危 機 に 対 して<br />

持 つ 役 割 ならびに 両 者 の 関 係 について 明 らかにしていきたい。<br />

II. 理 性 と 宗 教<br />

『 原 爆 』においては、「 理 性 の 代 わりに 問 題 となり 得 るもの」として「 常 識 (gesunder<br />

Menschenverstand)」、「 政 治 的 現 実 主 義 (politischer Realismus)」、「 教 会 的 宗 教 (kirchliche<br />

Religion)」の 三 つが 挙 げられている。ここでは、この 三 者 は「それ 自 体 、 自 らの 内 に 真 理<br />

を 含 んでおり、 理 性 にとって 不 可 欠 である」とされているが、しかし「これらが 真 となる<br />

のは 理 性 によって 貫 かれている 場 合 であり、 理 性 はこれらを 通 して 自 らを 実 現 する」もの<br />

と 考 えられている(A, 340)。 以 下 では、 本 稿 の 主 題 に 即 して 上 記 の 教 会 的 宗 教 に 焦 点 を<br />

絞 り、 理 性 と 宗 教 の 関 係 が『 原 爆 』においてどのように 考 えられているのかを 明 らかにし<br />

たい。<br />

<strong>ヤスパース</strong>は 教 会 的 宗 教 を 論 じるにあたって、まずは 宗 教 が 持 つ 諸 々の 重 要 な 意 義 につ<br />

いて 述 べることから 始 めている。「 宗 教 の 内 には、 我 々により 理 性 に 期 待 されているもの<br />

の 源 泉 が 流 れている。 宗 教 は 例 の 超 政 治 的 なものの 場 所 であり、ここからして 政 治 が 安 寧<br />

に 導 かれるのである。 世 界 の 事 物 一 切 に 先 立 って 存 在 しており、それ 自 体 では 世 界 の 事 物<br />

のように 理 解 できないものが、 宗 教 においては 啓 示 を 通 して、 礼 拝 と 信 仰 教 義 からなる 教<br />

会 を 通 して、 神 によって 欲 せられ 教 会 によって 解 釈 されたエートスを 通 して、 語 りかけて<br />

いる」(A, 347)。<br />

宗 教 のリアリティーは、このようにして 世 界 内 で 効 力 を 持 つようになり、 何 かしらの 現<br />

象 形 態 をとって 把 握 されるものとなる。その 一 方 で、ここで 注 意 されるべきなのは、こう<br />

して 世 界 内 でひとたび 理 解 可 能 となったものは 同 時 に「 人 間 の 産 物 (Menschenwerk)」( ibid.)<br />

に 他 ならないのであり、これが 神 聖 なものとして 絶 対 化 されるならば、そこでは 反 理 性 性<br />

や 非 人 間 性 が 生 じざるを 得 ないということである 6 。<br />

しかし、ここでは「 人 間 の 産 物 」 自 体 が 否 定 されるべきものとして 考 えられているので<br />

はなく、むしろこの 産 物 に 対 して 我 々がいかなる 態 度 を 保 持 すべきかといった 主 体 面 が 問<br />

題 になっていることが 重 要 である。そこで<strong>ヤスパース</strong>は、こうした 産 物 を 神 聖 なものとし<br />

て 絶 対 化 するのではなくて、 超 越 者 の 暗 号 として 捉 え 返 す 見 方 を 提 示 する。すなわち、「た<br />

だ 暗 号 としてのみ 人 間 の 産 物 は 真 理 を 保 持 し、また 人 間 が 本 来 的 に 自 らの 自 由 にもとづい<br />

て 欲 するものが 開 明 される 空 間 を、 超 越 者 の 多 義 的 な 言 語 として 人 間 に 与 える 力 を 保 持 す<br />

- 75 -<br />

宗 教 学 研 究 室 紀 要 vol. 10, 2013


るのである」が、こうしたことから、「 教 会 的 宗 教 による 暗 号 言 語 の 諸 々の 伝 承 は、それ<br />

ゆえにかけがえのないものなのである」と 言 われるに 至 る(A, 348)。<br />

ここで 注 目 すべきなのは、 超 越 者 からの 暗 号 が 我 々にとっては 多 義 的 であるということ<br />

であるが、この 多 義 性 が<strong>ヤスパース</strong>の 議 論 を 理 解 していく 上 で 特 に 重 要 なものとなる。 超<br />

越 者 からの 暗 号 は、それを 聴 取 する 者 たちにとっては 各 人 の 自 由 にもとづいて 多 義 的 に 現<br />

れるがゆえに、こうした 暗 号 を 解 読 する 際 には 常 にその 責 任 が 伴 い 続 ける。つまり、 暗 号<br />

の 多 義 性 は、 諸 々の 伝 承 を 悟 性 によって 一 義 的 に 固 定 化 して 理 解 することを 断 念 させ、 諸 々<br />

の 伝 承 の 中 に 現 れている 暗 号 を、 自 由 にもとづきつつ 理 性 によって 解 読 するという 責 任 を<br />

各 人 に 負 わせるのである。<strong>ヤスパース</strong>は 次 のように 言 っている。「しかし、まさにこの 多<br />

義 性 こそが、あらゆる 宗 教 において、 特 に 我 々のキリスト 教 においても、 諸 教 会 とその 代<br />

表 者 たちによって 責 任 が 取 られるべき 現 実 となっている 諸 々の 反 理 性 性 や 非 人 間 性 に 陥 ら<br />

ないために、 我 々の 自 由 を 挑 発 しているのである」(ibid.)。<br />

以 上 のことから 理 解 されるのは、いまや 宗 教 に 対 しても「 考 え 方 の 革 命 」が 突 きつけら<br />

れているということである。つまり、 包 括 的 な 理 性 的 思 惟 に 貫 かれることにより、 宗 教 が<br />

反 理 性 性 や 非 人 間 性 に 逸 脱 することなく、 純 粋 に 自 らの 根 源 を 維 持 していくことが 求 めら<br />

れているのである。 次 の 言 葉 は、まさにこのことを 示 している。「 多 義 性 が 要 求 している<br />

のは、 感 性 的 具 象 性 における 実 在 化 に 執 着 することから、 暗 号 文 字 の 浮 動 の 自 由 へと 我 々<br />

の 意 識 を 変 革 することを、 絶 えず 反 復 していくことなのである」(ibid.)。<br />

本 章 で 見 てきたように、 宗 教 が 自 らを 純 粋 に 維 持 していくためには 理 性 に 貫 かれていな<br />

ければならず、また 理 性 が 自 らの 力 を 実 現 していくためには 宗 教 と 関 係 していなければな<br />

らない。こうした<strong>ヤスパース</strong>の 考 え 方 は、 次 の 言 葉 に 最 もよく 表 れている。「 教 会 的 宗 教<br />

は、それが 理 性 によって 貫 かれている 程 度 に 応 じてのみ 真 である。 理 性 は、あらゆる 宗 教<br />

を 浄 化 し、その 混 濁 した 暗 黒 の 源 泉 を 純 化 する、 静 かな 力 である。 理 性 はあらゆる 宗 教 、<br />

宗 派 、 教 会 において 真 価 を 発 揮 する」(ibid.)。<br />

こうして、『 原 爆 』においては 宗 教 と 理 性 が 相 即 不 離 の 関 係 にあることが 強 調 され、 現<br />

代 に 関 する 以 前 の 著 作 群 に 比 して 両 者 の 関 係 がより 明 確 にされているわけであるが、こう<br />

した 関 係 を 基 盤 として、この 著 作 ではさらに 哲 学 と 宗 教 の 問 題 を 探 る 上 での 豊 富 な 議 論 が<br />

展 開 されている。そこでは 宗 教 に 対 する 仮 借 なき 批 判 が 展 開 されつつも、 独 自 の 真 理 を 有<br />

する 宗 教 に 対 して 根 本 からの 再 生 が 期 待 されているのであるが、 以 下 ではこの 点 に 注 目 す<br />

ることにより、 哲 学 と 宗 教 の 問 題 が『 原 爆 』においてどのような 到 達 点 に 至 ったのかを 明<br />

らかにすることができるであろう。<br />

- 76 -<br />

宗 教 学 研 究 室 紀 要 vol. 10, 2013


III. 暗 号 の 多 義 性 と 宗 教<br />

<strong>ヤスパース</strong>は 諸 々の 議 論 を 始 める 前 に、 次 のように 言 っている。「 我 々は、 現 在 の 教 会<br />

的 宗 教 と 神 学 との 理 性 に 問 うてみなければならない、その 理 性 が 原 爆 の 状 況 にあって 何 を<br />

言 うことができるのかと」(A, 349)。ここでは、 現 代 の 危 機 的 状 況 において 宗 教 が 持 つ<br />

役 割 が 何 であるかが 問 題 になっていると 言 い 得 る。こうした 観 点 から、 以 下 に 見 る 宗 教 批<br />

判 も 理 解 されなければならないであろう。つまり、ここでの 批 判 の 目 的 は、 既 成 の 宗 教 を<br />

単 に 否 定 する 点 にあるのではなく、むしろ 理 性 の 立 場 から 宗 教 の 問 題 点 を 指 摘 することに<br />

より、 宗 教 が 本 来 あるべき 姿 へと 再 生 していくことを 促 す 点 にあるのである。<br />

『 原 爆 』での 宗 教 批 判 を 理 解 するには、まず 聖 書 7 がどのようなものとして 考 えられてい<br />

るのかを 知 る 必 要 がある。<strong>ヤスパース</strong>は、 原 爆 の 危 機 に 面 して「 神 の 意 志 (Gottes Wille)」<br />

が 何 であるのかということを 問 題 にし、 次 のように 言 っている。「 我 々が 神 の 意 志 を 聖 書<br />

の 諸 命 題 において 求 めるならば、 我 々は 諸 々の 矛 盾 に 突 き 当 たる。 聖 書 は 豊 かで、 人 間 の<br />

多 くの 可 能 性 を 包 み 込 んでおり、 求 める 者 に 対 してはほとんど 常 に、 彼 が 欲 している 意 味<br />

において 一 つの 言 葉 を 提 供 する」(ibid.)。<br />

ここで 念 頭 に 置 かれているのは、こうした 聖 書 に 信 仰 の 基 礎 を 持 つ「 聖 書 宗 教 (biblische<br />

Religion)」である。「 聖 書 宗 教 とは 包 括 的 な 歴 史 的 空 間 であり、ここからして 各 々の 宗 派<br />

が、 他 の 諸 内 容 を 無 視 しながらそれぞれ 自 分 たちの 特 殊 な 強 調 点 を 獲 得 する」(PG, 74)<br />

と 言 われるように、 聖 書 宗 教 とは 本 来 あらゆる 対 立 や 矛 盾 を 保 持 しているものなのであり、<br />

ここからあらゆる 信 仰 の 立 場 がそれぞれ 固 有 の 仕 方 で 引 き 出 されてくるのである。つまり、<br />

ここでも 多 義 性 が 念 頭 に 置 かれていると 言 い 得 る。<br />

この 観 点 から、<strong>ヤスパース</strong>は 現 実 において 生 じている 信 仰 の 分 裂 について 次 のように 指<br />

摘 する。「 諸 々の 矛 盾 が 増 大 している。すなわち、 一 なる 聖 書 的 信 仰 が 存 在 しているので<br />

はなく、 多 くの 教 会 が 存 在 している。 万 人 が 聖 書 を 手 中 に 持 っているが、しかし 彼 らは 聖<br />

書 をそれぞれ 異 なった 仕 方 で 解 釈 する。プロテスタント 教 会 の 内 部 には、これまた 決 して<br />

お 互 いに 意 見 が 一 致 しない 神 学 者 たちが 存 在 している。 諸 々の 熾 烈 な 闘 争 が、 信 仰 におい<br />

て 親 近 な 者 たちを 激 しく 引 き 裂 き、 対 立 させているように 見 える。というのも、 永 遠 の 救<br />

済 は、 彼 らにとっては< 正 しい> 信 仰 にかかっているからである。 傍 観 者 が 見 てとるのは、<br />

対 立 する 諸 々の 帰 結 が、 神 の 啓 示 から 引 き 出 されるということなのである」(A, 350)。<br />

このように、 現 実 には 聖 書 という 一 つの 書 物 を 巡 って 様 々な 信 仰 の 形 態 が 存 在 しており、<br />

諸 々の 教 会 や 神 学 者 たちの 間 では 信 仰 に 関 して 一 致 することが 少 なく、また 原 爆 という 危<br />

機 にあって「 神 の 意 志 」が 何 であるかということに 関 しても 一 致 することが 少 ない 点 が 指<br />

摘 されるのであるが、こうした 教 会 的 宗 教 が 持 っている 矛 盾 性 に 対 立 するのが、ヤスパー<br />

スによればかの 理 性 に 他 ならない。 諸 々の 教 会 的 宗 教 は、「 教 会 的 ‐ 神 学 的 思 考 の 方 法 」<br />

- 77 -<br />

宗 教 学 研 究 室 紀 要 vol. 10, 2013


(A, 349)を 用 いてそれぞれに 自 らの 立 場 を 確 立 して 聖 書 内 の 矛 盾 を 調 停 しようと 試 み、<br />

その 信 仰 を 独 占 的 に 教 義 化 しようとする。<br />

しかし 理 性 の 立 場 からすれば、 諸 々の 教 会 的 宗 教 の 分 裂 は、「 暗 号 一 般 の 多 義 性 以 外 の<br />

何 ものでもない 啓 示 の 多 義 性 」(A, 350)によるものであると 考 えられるのであり、 理 性<br />

はこの 暗 号 の 多 義 性 に 面 して、 自 らの 実 存 の 自 由 と 責 任 において 解 読 を 試 みる 道 を 選 ぶ。<br />

それゆえ、「 神 の 意 志 」という 暗 号 に 面 しても、 理 性 はそれを 諸 々の 教 会 的 宗 教 がそれぞ<br />

れに 普 遍 妥 当 的 な 仕 方 で 伝 達 するようには 伝 達 し 得 ない。 理 性 の 立 場 に 徹 するならば、「 神<br />

の 意 志 という 暗 号 は、 恐 らく 依 然 として、 神 は 人 間 に 選 択 を 迫 っているという 形 で 考 えら<br />

れてこそ 最 も 相 応 しいものであろう」(A, 354)と 考 えられるのである。<br />

以 上 のように、 諸 々の 教 会 的 宗 教 の「 教 会 的 ‐ 神 学 的 思 考 の 方 法 」によって 現 実 に 生 じ<br />

ている 信 仰 の 分 裂 に 対 して、<strong>ヤスパース</strong>は 暗 号 の 多 義 性 という 理 性 の 思 考 を 突 きつける。<br />

これは 宗 教 の 側 で 言 えば 啓 示 の 多 義 性 に 他 ならず、まさにこの 多 義 性 を 対 立 や 矛 盾 といっ<br />

た 仕 方 で 保 持 している 聖 書 宗 教 に 各 々の 教 会 的 宗 教 が 立 ち 返 ることにより、 一 つの 信 仰 を<br />

独 占 的 に 教 義 化 する 中 で 生 じ 得 る 逸 脱 の 防 止 が 期 待 されるのである。<br />

IV. 教 会 的 宗 教 における 危 機 と 好 機<br />

以 上 のような 理 性 の 立 場 から、<strong>ヤスパース</strong>は 教 会 における 危 機 と 好 機 について 論 じるこ<br />

とを 試 みているが、こうした 姿 勢 は『 原 爆 』 以 前 の 現 代 論 に 比 して 際 立 っていると 言 える。<br />

つまり『 原 爆 』では、 危 機 を 直 視 する 中 で 好 機 を 掴 み 取 ってゆこうとする<strong>ヤスパース</strong>の 根<br />

本 的 態 度 が、 明 確 な 仕 方 で 宗 教 に 対 しても 向 けられることになるのであるが、まさにこの<br />

論 点 を 明 らかにすることによって、 宗 教 に 対 する<strong>ヤスパース</strong>の 立 ち 位 置 がより 明 瞭 なもの<br />

になると 考 えられる。<br />

まず 注 目 されなければならないのは、 教 会 に 対 する<strong>ヤスパース</strong>の 言 及 の 仕 方 である。ヤ<br />

スパースによれば、 理 性 の 立 場 に 立 つ「 我 々は 諸 々の 教 会 に 対 して、それらが 何 を 為 すべ<br />

きかを 指 図 することはできない。 確 かにそうではあるが、しかし 我 々は、 教 会 は 何 を 為 す<br />

だろうか、 何 を 為 し 得 るだろうかと 問 いつつ、 教 会 に 目 を 向 けてしかるべきである」(ibid.)。<br />

先 述 のように、 理 性 は「あらゆる 宗 教 を 浄 化 し、その 混 濁 した 暗 黒 の 源 泉 を 純 化 する、 静<br />

かな 力 」なのであるが、この 立 場 から 教 会 における 危 機 と 好 機 の 問 題 が 批 判 的 に 論 じられ、<br />

宗 教 が 自 らを 変 革 し 得 る 空 間 が 開 かれることになる。 以 下 では、<strong>ヤスパース</strong>が 教 会 的 宗 教<br />

の 危 機 をどのようなものとして 提 示 しているのかを 確 認 し、そこからどのようにして 好 機<br />

への 手 掛 かりを 見 出 しているのかを 見 ることにしたい。<br />

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まず、<strong>ヤスパース</strong>は 教 会 の 諸 々の 危 機 を 列 挙 することから 始 めている。 教 会 は 信 者 に 彼<br />

、、、、<br />

岸 の 恩 寵 を 約 束 し、それ 自 身 だけで 充 足 させる 思 想 の 数 々を 伝 えることにより「 偽 りの 安<br />

、<br />

、、、、、<br />

心 」を 誘 発 する 危 険 を 持 っているのであり、そしてこれにもとづいて「 教 会 の 政 治 的 無 責<br />

、<br />

任 の 可 能 性 」を 生 じさせる(A, 355)。 教 会 は、それぞれに 自 らの 信 仰 を 教 義 化 した 仕 方<br />

、、、、、、<br />

で 告 知 しつつ 他 の 信 仰 を 排 除 するがゆえに、「 信 仰 そのものが 持 つ 真 理 性 の 信 用 を 失 わせ<br />

、<br />

る」のであり、また 世 界 内 の 有 限 な 事 物 への 信 頼 によって 人 間 の 責 任 感 を 緩 ませ、 神 の 摂<br />

、、<br />

理 を 指 示 することにより 受 動 性 を 促 進 する 点 で「 理 性 」にとって 危 険 な 存 在 となっている<br />

(ibid.)。さらに 教 会 は、 科 学 と 技 術 が 一 つの 契 機 となっている 500 年 来 の 物 事 の 歩 みを<br />

、、、、、、、<br />

「 唯 一 無 比 の 堕 落 過 程 」と 見 なす 傾 向 にあるがゆえに、こうした 過 程 の「 偉 大 さや 運 命 性 」<br />

、、、、、、、、、、、、、、、、、、<br />

に 身 を 置 く 覚 悟 がないままであり、また「 今 日 、 教 会 は 理 性 の 徹 底 性 を 前 にしてしりごみ<br />

、、、、<br />

している」という 状 況 にある(ibid.)。<br />

<strong>ヤスパース</strong>は、このようにして 危 機 を 次 々と 挙 げることによって 教 会 を 批 判 していくの<br />

であるが、ここで 見 逃 されてはならないのは、「これらの 危 機 を、 我 々は 教 会 の 本 質 と 見<br />

なすことはできない」(ibid.)という 点 である。というのも、 本 来 これらの 危 機 は、 人 間<br />

のあらゆる 可 能 性 を 含 んだ 包 括 的 な 聖 書 に 基 盤 を 持 った 教 会 にとっては 非 本 質 なものであ<br />

り、 教 会 が 聖 書 宗 教 という 根 源 に 立 ち 返 るならば 修 正 され 得 るものだからである。<br />

また、 教 会 の 根 本 悪 に 関 しては 次 のように 批 判 される。「 教 会 における 根 本 悪 は、 教 会<br />

が 聖 書 的 な 神 信 仰 や 極 限 的 なものを 敢 行 することを 欲 してはいるものの、しかし 教 会 自 身<br />

がそれをもって 権 力 を 獲 得 するか、あるいは 権 力 を 失 わないという 条 件 のもとで、そうす<br />

ることを 欲 しているという 点 にある。 例 えば 教 会 は、 何 が 住 民 に 期 待 され 得 るのかと 問 う<br />

が、 今 日 では 教 会 は、 以 前 の 信 仰 の 時 代 に 比 べるならば、 住 民 には 犠 牲 や 死 への 覚 悟 の 点<br />

ではもはやほとんど 何 ものも 期 待 され 得 ないことを 知 っているように 見 える」(A, 358)。<br />

しかしここでも、 先 ほどと 同 様 の 理 由 からであろうが、これらの 危 機 が「 教 会 に 関 する 最<br />

後 の 言 葉 」(ibid.)では 決 してないと 指 摘 されている。<br />

さらに 続 いて、 教 会 的 宗 教 に 対 する 批 判 として 次 のように 言 われる。「いまだに 教 会 は、<br />

納 得 させ 助 けることができるような 言 葉 や 行 為 を 見 出 していない。 教 会 は、 差 し 迫 る 人 類<br />

の 終 末 を、それに 立 ち 向 かうことができるような 率 直 さをもって 見 やることをなおせずに<br />

いる。 教 会 は、ルターと 縁 を 切 り、ヒットラーと 政 教 条 約 を 結 んだ 時 の 教 皇 庁 と 同 様 、い<br />

まだに 近 視 眼 的 に 考 えている」(A, 361)。また「 今 日 、 教 会 は、 預 言 者 の 神 であった 神<br />

を 覆 い 隠 しているように 見 える。 教 会 は、 教 会 から 与 えられた 媒 介 の 諸 形 式 に 神 への 直 接<br />

性 を 結 びつけることによって、また 教 会 自 体 の 神 聖 さに 対 する 誤 った 信 仰 を 要 求 すること<br />

によって、 神 への 直 接 性 を 麻 痺 させている」(ibid.)。このような 観 点 から、「それゆえ<br />

今 日 では、もし 教 会 がモーセからイエスに 至 る 預 言 者 の 精 神 のために、 行 為 する 人 間 の 信<br />

憑 性 を 通 して 有 効 となる 言 葉 を 新 たな 形 態 において 見 出 さないのであれば、 差 し 迫 ってい<br />

る 人 類 の 終 末 を 前 にして 役 立 たずに 終 わり 得 るという 憂 慮 が 存 在 する」(ibid.)と 言 われ<br />

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るに 至 るが、ここで 批 判 されている 諸 々の 危 機 も、 先 ほどと 同 様 の 理 由 で、 本 来 の 教 会 的<br />

宗 教 からすれば 非 本 質 的 なものと 考 えられていると 言 える。<br />

『 原 爆 』での 危 機 を 巡 る 主 な 宗 教 批 判 の 内 容 は、およそ 以 上 のようなものである。しか<br />

しこの 批 判 は、 宗 教 の 抹 殺 ではなくそれの 浄 化 ないし 純 化 を 求 める 理 性 の 立 場 から 遂 行 さ<br />

れているのであって、 聖 書 宗 教 という 根 源 からすれば、 上 述 した 諸 々の 危 機 は 教 会 的 宗 教<br />

に 非 本 質 的 なものなのであり、こうした 危 機 の 自 覚 から 聖 書 宗 教 への 帰 還 が 問 題 とされる<br />

のである。<strong>ヤスパース</strong>が 教 会 に 好 機 を 見 ているのはまさにこの 点 に 他 ならないのであり、<br />

いまや 諸 々の 教 会 に 要 求 されているのは、 聖 書 を 各 々の 観 点 から 一 義 的 に 解 釈 し 他 を 排 除<br />

するという 立 場 から、 多 義 的 な 暗 号 の 可 能 性 に 開 かれた 聖 書 宗 教 に 立 ち 返 って 自 らを 変 化<br />

させるという 立 場 に 転 換 することなのである。<br />

こうしたことから、 次 の 言 葉 が 初 めて 正 確 に 理 解 されるようになるであろう。「 教 義 上<br />

の 公 式 化 というものは、 根 本 的 には 暗 号 の 言 語 のように 変 動 的 である。 一 なる 真 理 は 諸 々<br />

の 形 態 の 多 様 性 において 現 象 するが、しかし 唯 一 の 妥 当 的 な 形 態 としてではない。〔 中 略 〕<br />

教 会 は、 形 態 を 変 えながら 伝 承 されてきた 信 仰 を 通 して 現 在 の 人 間 を 把 捉 することができ<br />

る 場 合 に、 初 めてそれ 自 体 で 信 頼 するに 足 るものとなる」(A, 355f.)。この 批 判 の 立 場 か<br />

らして、 教 会 的 宗 教 は「 現 在 の 人 間 を 把 捉 する」ことができずにおり 信 頼 を 喪 失 した 状 態<br />

にあると 言 えるであろうが、しかしここには、 教 会 が 暗 号 の 多 義 性 を 含 んだ 聖 書 宗 教 に 立<br />

ち 返 る 中 で、 現 在 の 人 間 を 把 捉 し、 新 たな 言 葉 を 語 ることによって 転 換 を 果 たしていくと<br />

いう 可 能 性 が 示 唆 されている。「 教 会 が 世 界 的 な 転 換 期 を 意 識 する 中 で、 今 日 再 び 根 源 的<br />

に 聖 書 に 語 らせ 得 る 場 合 、 教 会 のあらゆる 好 機 は 聖 書 の 内 に 存 するのである」(A, 356)<br />

と 言 われる 所 以 である。<br />

『 原 爆 』では、 教 会 的 宗 教 における 危 機 と 好 機 という 枠 組 みは 以 上 のようなものとして<br />

提 示 されているのであるが、ここで 注 目 すべきなのは、この 好 機 を 巡 ってさらに 議 論 が 具<br />

体 的 な 仕 方 で 展 開 されている 点 である。 以 下 ではこれについて 検 討 していきたいが、この<br />

作 業 を 通 して 特 に 浮 き 彫 りとなるのは、『 原 爆 』においては 以 前 の 現 代 論 には 見 られない<br />

ほど、 宗 教 に 対 して 積 極 的 な 提 言 がなされているということである。<br />

V. 教 会 的 宗 教 における 変 化<br />

これまでに 見 てきたことからすれば、<strong>ヤスパース</strong>の 宗 教 批 判 の 根 底 にはやはり 暗 号 の 多<br />

義 性 という 考 え 方 が 存 していると 言 える。そしてこの 暗 号 の 多 義 性 という 観 点 から、「 教<br />

義 的 信 仰 内 容 の 形 態 における 変 化 」が 問 われることになるが、この 変 化 が 成 就 されるため<br />

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には、 現 実 的 には 無 効 である 信 仰 内 容 の「 放 棄 」と、「 新 たな 真 剣 さ」が 必 要 であるとさ<br />

れている(ibid.)。ここで 特 に 注 目 すべきなのは、<strong>ヤスパース</strong>が 教 会 的 宗 教 の 好 機 を 巡 っ<br />

て、その 信 仰 内 容 の 何 を 放 棄 すべきかを 具 体 的 に 語 っている 点 である。すなわち、「キリ<br />

ストにおける 神 の 受 肉 、 三 位 一 体 の 特 殊 な 教 義 、 不 合 理 となってしまっている 諸 々の 義 務<br />

が 律 法 に 適 っているとされていること、インドや 中 国 のものとは 本 質 的 に 異 なり、それら<br />

に 対 する 優 位 を 強 制 的 に 要 求 する、キリスト 教 に 固 有 な 啓 示 の 主 張 、そしてその 他 多 くの<br />

事 柄 」(ibid.)が 放 棄 されるべきだと 言 われている 8 。<br />

<strong>ヤスパース</strong>の 暗 号 論 からすれば、 宗 教 思 想 の 多 様 性 は、 一 なる 超 越 者 の 暗 号 の 多 義 性 と<br />

して 認 められることになろうが、しかし 彼 によって 提 起 された 上 記 の 諸 要 求 は、 逆 に 宗 教<br />

思 想 の 多 様 性 を 排 除 するものを 持 ってはいないだろうか。ここで 重 要 なのは、<strong>ヤスパース</strong><br />

によって 批 判 されている 上 述 の 信 仰 内 容 は、 暗 号 としてなら 許 容 されるであろうが、しか<br />

しそれが「 実 在 化 (Realisierung)」において、また「 具 象 性 (Leibhaftigkeit)」において<br />

捉 えられているのならば、もはや 許 容 されるものではないということである。<br />

「 理 性 は、 諸 々の 暗 号 を 具 象 的 な 実 体 にまで 実 在 化 することを 許 してはならない。こう<br />

した 実 在 化 は、 迷 信 のしるしである」(A, 415)と 指 摘 されるように、<strong>ヤスパース</strong>の 宗 教<br />

批 判 の 基 礎 にあるのは、 暗 号 の 開 かれた 多 義 性 を 強 調 することに 加 えて、そうした 暗 号 の<br />

実 在 化 や 具 象 化 の 危 険 を 告 発 することなのである。それゆえ、<strong>ヤスパース</strong>によって 提 起 さ<br />

れた 諸 要 求 にあっては、 宗 教 における 暗 号 の 実 在 化 および 具 象 化 の 断 念 が 飽 くまで 念 頭 に<br />

置 かれているのであり、そこでは 暗 号 の 多 義 性 そのものは 依 然 として 保 持 されていると 考<br />

えられる。この 限 りで、<strong>ヤスパース</strong>の 暗 号 論 は 宗 教 思 想 の 多 様 性 を 認 めるものであると 言<br />

えよう。<br />

また、 先 述 の 諸 要 求 の 中 でも、「キリスト 教 に 固 有 な 啓 示 の 主 張 」を 放 棄 せよとの 要 求<br />

は、キリスト 教 徒 にとっては 最 も 受 け 入 れがたいものであろう。というのも、 啓 示 の 主 張<br />

の 放 棄 によってなおキリスト 教 信 仰 は 成 り 立 つのかどうかは 疑 問 であるし、 彼 らにとって<br />

は 啓 示 の 主 張 の 放 棄 は 地 盤 喪 失 ともなりかねないからである。だが<strong>ヤスパース</strong> 自 身 、『 啓<br />

示 に 面 しての 哲 学 的 信 仰 』(1962 年 )において、「 啓 示 それ 自 体 は 哲 学 にとって 暗 号 にな<br />

る」(PGO, 37)とし、「 哲 学 的 信 仰 は 啓 示 を 理 解 することができないけれども、しかしそ<br />

れを 他 者 に 対 しては 可 能 性 として 認 める」(PGO, 38)と 言 っていることから、 啓 示 はヤス<br />

パースにとっては 暗 号 としてのみ 許 容 され、 実 在 性 および 具 象 性 としては 確 かに 批 判 され<br />

るべきものではあるが、 一 方 で 他 者 の 啓 示 信 仰 については、その 可 能 性 は 完 全 に 排 除 され<br />

るべきものであるとは 考 えられていないように 思 われる。<br />

恐 らく<strong>ヤスパース</strong>も、 上 記 の 要 求 を 含 めた 諸 要 求 はキリスト 教 徒 によってそう 簡 単 には<br />

受 容 されるものではないと 考 えていたのであろうが、しかしここで 重 要 なのは、キリスト<br />

教 が 現 代 の 状 況 に 即 しつつ 他 の 宗 教 にも 開 かれた 仕 方 で 存 在 することを 欲 するならば、か<br />

の 諸 要 求 は、たとえそれらがキリスト 教 の 側 から 拒 否 されるとしても、 今 一 度 キリスト 教<br />

- 81 -<br />

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自 身 のあり 方 を 考 える 上 で、 一 つの 訴 えかけとなる 可 能 性 があるということである。ヤス<br />

パース 自 身 、 改 革 そのものは 宗 教 の 側 から 生 じなければならないのを 強 調 していることか<br />

ら、 改 革 それ 自 体 は、 哲 学 からの 批 判 的 な 訴 えかけを 引 き 受 ける 中 で、 聖 書 宗 教 という 理<br />

念 に 即 してキリスト 教 の 内 部 から 遂 行 されなければならないであろう。<br />

以 上 に 見 たような<strong>ヤスパース</strong>のキリスト 教 批 判 の 背 後 にあるのは、やはり 聖 書 宗 教 とい<br />

う 根 源 からすれば、 先 ほどの 諸 々の 信 仰 内 容 は 教 会 的 宗 教 に 必 須 のものではあり 得 ないと<br />

いう 考 えである。 諸 々の 放 棄 に 関 する<strong>ヤスパース</strong>の 要 求 は、ややもすると 教 会 的 宗 教 の 徹<br />

底 的 な 解 体 を 望 んでいるとも 受 け 取 られかねない 印 象 を 抱 かせるが、しかし<strong>ヤスパース</strong>は<br />

どこまでも 教 会 的 宗 教 が 変 化 を 遂 げて 再 生 することを 期 待 しているのであって、 教 会 的 宗<br />

教 の 破 壊 的 な 解 体 などを 期 待 しているのではない 9 。<strong>ヤスパース</strong>によれば、「 現 実 には 信 仰<br />

されていないものを 放 棄 することは、 聖 書 的 信 仰 の 力 が 再 び 開 花 し 得 るための 条 件 」(A,<br />

356)なのであり、 教 会 的 宗 教 は 暗 号 の 多 義 性 を 保 持 した 聖 書 宗 教 に 立 ち 返 りつつ、もはや<br />

現 実 には 無 効 となってしまっている 信 仰 内 容 を 放 棄 することによって、 自 らの 新 たな 言 葉<br />

を 見 出 していく 必 要 がある。ここに、 教 会 的 宗 教 の 好 機 を 巡 る 中 での、 理 性 による 宗 教 批<br />

判 の 核 心 があると 言 うことができよう。<br />

このようにして、 教 会 は 現 実 には 無 効 化 している 信 仰 内 容 を 放 棄 し、 新 たな 真 剣 さでも<br />

って 有 効 な 言 葉 を 語 り 出 していかなければならない。いまや、「 教 会 の 大 いなる 決 断 」が<br />

問 題 となっているのであり、その 決 断 にもとづいて「 教 会 は、 人 間 を 信 仰 に 目 覚 めさせる<br />

ために 自 らの 現 存 在 を 賭 けなければならないであろうし、 人 々をなだめるために 自 らの 権<br />

力 を 強 めてはならないであろう」と 言 われる(A, 359)。また「 教 会 は、それが 昔 から 要<br />

求 してきたように、 各 々の 単 独 者 にいっそう 深 く 影 響 を 与 えるのでなければならない。し<br />

かしこの 点 で、 教 会 が 危 険 を 冒 し、 人 々が 教 会 から 逃 げ 出 すほどに、 教 会 の 要 求 は― 人<br />

、、、、、、、<br />

間 の 平 均 的 な 弱 さや 悪 意 に 順 応 したり、 気 を 楽 にさせる恩 寵 10 の 手 段 を 提 供 したりするこ<br />

となく― 真 剣 に、 厳 格 に、 明 晰 に、 無 条 件 的 にならなければならない」(ibid.)と 言 わ<br />

れるが、このような 要 求 は、「 人 々が 教 会 から 逃 げ 出 すほど」 厳 しいものであるがゆえに、<br />

ここではまた 背 教 の 危 機 も 生 じてき 得 る。<br />

これに 対 して、<strong>ヤスパース</strong>は 次 のように 言 う。「 過 大 な 要 求 ゆえの 背 教 の 危 機 は、ただ<br />

次 のことによってのみ 緩 和 され 得 る。すなわち、 司 祭 や 牧 師 の 援 助 と 同 じくらい 偉 大 なこ<br />

とを 果 たし 得 ると 考 えている 人 々が、 自 分 自 身 を 通 して、 疑 う 余 地 のない 善 意 、 愛 、 犠 牲<br />

の 覚 悟 を 通 して、 各 々の 言 葉 と 行 為 でもって、 自 分 たちが 自 ら 告 知 する 真 理 の 内 に 立 って<br />

いることを 率 直 に 気 取 ることなく 証 言 することによってである。ただこうすることによっ<br />

てのみ、 彼 らは 他 の 人 々を 納 得 させるのである」(ibid.)。 恐 らくここで<strong>ヤスパース</strong>が 主<br />

張 しているのは、 教 会 的 宗 教 の 変 革 には 司 祭 や 牧 師 といった 代 表 者 の 力 だけでなく、 信 者<br />

の 力 も 不 可 欠 であるということであろう。こうしたことから、「 信 者 に 対 して 犠 牲 になる<br />

よう 期 待 することは、 教 会 自 体 の 犠 牲 という 冒 険 がそれに 結 びついていなければ 無 効 であ<br />

- 82 -<br />

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る」とも 言 われるのであろうし、さらに、「 教 会 の 指 導 者 と 成 員 によって 極 限 的 なものを<br />

証 言 し 保 持 することを 達 成 し、 人 々と 共 に 自 らを 新 しい 形 態 に 変 革 すること」が 必 要 であ<br />

るとも 言 われるのであろう(ibid.)。<br />

以 上 のことから、 現 代 の 危 機 的 状 況 にあって 不 可 欠 なのは、 教 会 的 宗 教 が 根 本 からの 徹<br />

底 的 な 変 革 を 経 て、 新 たな 形 態 において 救 済 を 可 能 にすることであると 言 える。しかしこ<br />

れの 実 現 には、 歴 史 的 に 見 ても 極 めて 大 きな 困 難 が 伴 うであろう。<strong>ヤスパース</strong>によれば、<br />

「 我 々に 今 日 突 きつけられている 極 限 的 なものを、 聖 書 の 土 台 にもとづいて 遂 行 し 得 るに<br />

は、 例 えばかつてプロテスタントの 宗 教 改 革 が 達 成 した 変 化 よりも、 一 層 深 い 変 化 が 必 要<br />

なのである」(A, 360)。<br />

ここで 見 逃 されてはならないのは、<strong>ヤスパース</strong>が「プロテスタントの 宗 教 改 革 」という<br />

歴 史 的 事 件 を 引 き 合 いに 出 していることである。これは 偶 然 のことではなく、むしろ 次 の<br />

ような<strong>ヤスパース</strong>の 考 えが 反 映 されての 発 言 であると 見 るべきであろう。すなわち、「 私<br />

がプロテスタント 的 な 基 盤 に 対 して 最 大 限 に 好 機 を 見 るとすれば、それはまさにプロテス<br />

タント 的 な、 哲 学 に 近 い 原 理 、すなわち< 仲 保 者 なしに>、< 直 接 的 に 神 へ>、< 万 人 祭<br />

司 主 義 >という 原 理 に 存 し、そしてこれに 付 属 して、 教 会 が 信 仰 の 多 数 の 現 象 形 態 へと、<br />

また 諸 々の 自 立 した 教 団 へと 制 度 的 に 分 散 するのを 認 可 することに 存 するのである」(A,<br />

360f.)。<br />

こうした「プロテスタント 的 な 基 盤 」が<strong>ヤスパース</strong>によって 評 価 されているのは、 恐 ら<br />

くこの 基 盤 が、 彼 の 宗 教 哲 学 的 思 索 の 根 底 に 存 する 暗 号 の 多 義 性 という 考 え 方 に 近 いから<br />

であろう。ここでの 文 脈 で 言 えば、ルターの 宗 教 改 革 によって 歴 史 上 に 現 れた「プロテス<br />

タント 的 な 基 盤 」をより 徹 底 した 仕 方 で 取 り 返 しつつ、 聖 書 宗 教 という 根 源 に 帰 還 するこ<br />

とが、 教 会 的 宗 教 の 好 機 に 繋 がると 考 えられているわけである。<br />

ここでも、 暗 号 の 多 義 性 が<strong>ヤスパース</strong>の 思 索 を 理 解 するためのキーコンセプトとなって<br />

いる。またこの 多 義 的 な 暗 号 は、 教 会 的 宗 教 の 側 ではいわば 啓 示 の 多 義 性 に 他 ならないの<br />

であるから、 諸 々の 教 会 的 宗 教 が 組 織 的 に 統 一 されることはさして 重 要 ではないとされて<br />

いる 点 にも 目 が 向 けられて 然 るべきであろう。<strong>ヤスパース</strong>は 次 のように 言 っている。「 教<br />

会 の 組 織 的 な 統 一 は、 一 なる 真 理 が 多 数 の 教 団 や 多 数 の 現 象 形 態 において 実 現 されるであ<br />

ろうから、どうでもよいものであろう。 諸 教 会 は、かつての 諸 々のセクトに 例 えられ 得 る<br />

であろう(このことは、 諸 々のセクトが、 真 理 の 超 感 性 的 で 目 に 見 えない 統 一 のために、<br />

目 に 見 える 教 会 の 政 治 的 な 統 一 思 想 に 反 抗 し、それらの 側 で 教 会 的 な 性 格 を 承 認 しなかっ<br />

た 限 りでのことではあるが)」(A, 360)。<br />

このことは、 宗 教 社 会 学 によって 提 起 された「チャーチ」と「セクト」という 枠 組 みに<br />

おいて 理 解 されるものと 考 えられる。つまりここでは、チャーチの 典 型 的 モデルである 中<br />

世 カトリック 教 会 に 対 して、セクトの 典 型 的 モデルであるプロテスタント 諸 派 が 出 現 した<br />

という 歴 史 的 な 事 例 が 意 識 されているのであって、このプロテスタント 的 な 基 盤 にもとづ<br />

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いたセクトの 多 様 性 の 中 に、<strong>ヤスパース</strong>は 暗 号 の 多 義 性 を 読 み 取 っていると 思 われるので<br />

ある。 一 なる 超 越 者 は 隠 されており、 誰 の 所 有 ともならず、ただその 暗 号 の 多 義 性 の 中 で<br />

辛 うじて 触 れられるのみなのであるが、この 意 味 において、<strong>ヤスパース</strong>は 信 仰 の 多 様 性 を<br />

認 可 するプロテスタント 的 な 原 理 に 親 近 性 を 感 じており、まさにこの 原 理 においてこそ、<br />

教 会 的 宗 教 の 変 化 に 対 する 期 待 がかけられていると 言 える。<br />

こうした 教 会 的 宗 教 に 対 する<strong>ヤスパース</strong>の 期 待 は、 次 の 言 葉 に 最 も 明 確 に 表 現 されてい<br />

る。「 教 会 が 教 会 自 身 の 現 存 在 を 危 険 にさらすというこの 歩 みを 敢 行 するようであるなら<br />

ば、その 時 には 日 々 至 る 所 で、 司 祭 や 神 学 者 たちの 声 において 聖 書 の 言 葉 が 信 頼 するに 足<br />

るようになり、 何 が 存 在 し、 何 が 脅 かしており、 何 が 差 し 迫 っており、 何 が 為 されるのか<br />

が 告 げられるであろう。また、どのような 仕 方 で 人 間 が 根 本 から 徹 底 的 に 変 化 しなければ<br />

ならないのかを 巡 る、 人 間 に 対 する 永 遠 の 要 求 が、 新 たな 真 剣 さを 伴 って 反 復 されるであ<br />

ろうが、このことは 日 常 との、つまり 人 間 が 行 い 考 える 全 てのものとの 連 関 において 遂 行<br />

されるであろう」(ibid.)。<br />

おわりに<br />

以 上 に 見 てきたように、 悟 性 から 理 性 への 転 換 に 救 済 の 可 能 性 を 見 る『 原 爆 』において<br />

は、それ 以 前 の 現 代 論 に 比 して 宗 教 の 問 題 が 詳 細 に 論 じられており、 哲 学 の 立 場 である 理<br />

性 との 相 即 関 係 についても 明 確 に 言 及 されていたのであった。また、その 宗 教 哲 学 的 思 索<br />

の 根 底 には 暗 号 の 多 義 性 という 考 えが 存 しており、このキーコンセプトに 即 して 諸 々の 議<br />

論 が 展 開 されていたのであった。<strong>ヤスパース</strong>が 教 会 的 宗 教 に 対 して、 暗 号 の 多 義 性 を 保 持<br />

した 聖 書 宗 教 に 帰 還 することをしきりに 要 求 したのは、 結 局 は 隠 れたる 超 越 者 を 前 にして、<br />

哲 学 と 宗 教 が 出 会 い 得 る 空 間 を 指 示 しようとしたからであろうと 考 えられる。<strong>ヤスパース</strong><br />

によれば、「 諸 々の 教 会 的 宗 教 における 本 来 的 な 真 理 と、 理 性 における 本 来 的 な 真 理 とは、<br />

一 つのものである。 我 々は 皆 、 同 一 のものを 求 め、 欲 しているのである。この< 同 一 のも<br />

の>を 前 にしては、 諸 々の 暗 号 は 第 二 級 の 事 柄 に 過 ぎない」(A, 364)。<br />

この「 同 一 のもの」とは 超 越 者 に 他 ならないが、まさにこの 超 越 者 の 多 義 的 な 暗 号 の 世<br />

界 においてこそ 哲 学 と 宗 教 は 出 会 い 得 るであろうし、またそれぞれの 立 場 から 暗 号 の 解 読<br />

がなされることによって、 現 代 の 危 機 的 状 況 に 対 していかに 立 ち 向 かうかが 決 断 されるこ<br />

とになるであろう。 一 義 的 な 理 解 を 欲 する 単 なる 悟 性 ではなく、むしろそうした 一 義 性 を<br />

超 え 包 む 多 義 性 において 自 ら 思 索 する 理 性 にあってこそ、 暗 号 解 読 の 自 由 と 責 任 を 負 いつ<br />

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つ、 悟 性 的 思 惟 によってだけでは 決 して 出 てこないような 事 柄 に 関 して 決 断 を 下 すことが<br />

できるのである。<br />

『 状 況 』 以 来 、 哲 学 と 宗 教 の 両 者 は、 現 代 の 危 機 的 状 況 に 面 して 互 いを 連 帯 的 に 見 なけ<br />

ればならないとされてきたが、『 原 爆 』に 至 ってはさらに 進 んで 次 のように 言 われている<br />

点 が 注 目 されるべきである。「 恐 らく 教 会 の 中 には、 聖 書 的 信 仰 における 自 らの 根 源 のお<br />

かげで、 理 性 の 諸 力 が 潜 んでいるであろうし、こうした 理 性 の 諸 力 と 結 束 することで、 今<br />

日 世 界 は 変 革 され 得 るであろう」(A, 358)。このように、『 原 爆 』においては、 現 代 の<br />

危 機 に 面 して 哲 学 と 宗 教 が 結 束 することで 世 界 の 変 革 が 促 進 され、そこから 人 類 の 救 済 が<br />

もたらされる 可 能 性 が 描 かれている。 現 代 の 危 機 に 対 する 哲 学 と 宗 教 の 重 要 な 役 割 ならび<br />

に、そこでの 哲 学 と 宗 教 との 連 帯 関 係 が 以 前 の 現 代 論 に 比 して 明 確 に 示 されている 点 で、<br />

『 原 爆 』は<strong>ヤスパース</strong>の 宗 教 哲 学 的 思 索 の 一 つの 到 達 点 を 提 示 した 著 作 であると 解 される。<br />

ここでの 到 達 点 は、<strong>ヤスパース</strong>の 宗 教 哲 学 の 集 大 成 とも 言 える『 啓 示 に 面 しての 哲 学 的 信<br />

仰 』を 読 み 解 く 上 でも、 少 なからず 有 益 な 見 方 を 提 供 し 得 るものとなるであろう。<br />

凡 例<br />

<strong>ヤスパース</strong>の 著 作 は 以 下 の 略 号 で 示 す。<br />

GSZ:Die geistige Situation der Zeit, 1931, 8. Abdruck der im Sommer 1932 bearbeiteten 5. Aufl.,<br />

Berlin, New York, Walter de Gruyter, 1979.<br />

I-III:Philosophie, 3 Bde., 1932, 3. Aufl., Berlin, Göttingen, Heidelberg, Springer, 1956.<br />

PG:Der philosophische Glaube, 1948, 7. Aufl, München, Piper, 1981.<br />

UZG:Vom Ursprung und Ziel der Geschichte, München, Piper, 1949.<br />

A:Die Atombombe und die Zukunft des Menschen, 1958, 7. Aufl., München, Zürich, Piper, 1983.<br />

PGO:Der philosophische Glaube angesichts der Offenbarung, München, Piper, 1962.<br />

注<br />

1<br />

Golo Mann, Jaspers als geschichtlicher Denker, in : Klaus Piper(Hrsg.), Werk und Wirkung,<br />

München, Piper, 1963, S. 144.<br />

2 『 歴 史 』における 哲 学 と 宗 教 の 問 題 については、 次 のものを 参 照 。 藤 田 俊 輔 「ヤスパー<br />

ス『 歴 史 の 根 源 と 目 標 』における 信 仰 について」『 宗 教 学 研 究 室 紀 要 』 第 9 号 、 京 都 大 学 宗<br />

教 学 研 究 室 編 、2012 年 、88‐106 頁 。<br />

3 Heiner Bielefeldt, Kampf und Entscheidung : politischer Existentialismus bei Carl Schmitt,<br />

Helmuth Plessner und Karl Jaspers, Würzburg, Königshausen & Neumann, 1994, S. 101.<br />

4 こうした 悟 性 から 理 性 への「 転 回 (Wende)」という 事 態 をより 詳 しく 見 るならば、ここ<br />

では 二 重 のことが 行 われているとされる。<strong>ヤスパース</strong>によれば、「まず 計 画 から、 出 来 事 の<br />

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諸 可 能 性 に 関 する 一 定 の 知 識 から、 包 括 者 にもとづく 哲 学 的 思 惟 への 転 回 が 行 われ、―そ<br />

して 次 には、そこから 再 び 知 識 や 計 画 が 問 題 となるかの 世 界 内 での 思 惟 に 帰 還 する 転 回 が<br />

行 われる」(A, 283)。つまり、「 第 一 の 転 回 は、 思 惟 において、この 思 惟 を 伴 った 人 間 の 変<br />

革 に 導 くのであり、 第 二 の 転 回 は、 諸 々の 出 来 事 の 進 展 に 新 たな 方 向 をもたらすことで、<br />

世 界 内 での 上 記 の 変 化 による 効 果 発 現 に 導 くのである」(ibid.)。<br />

5<br />

科 学 に 対 するこのような 誤 謬 は、『 状 況 』での 思 索 以 来 「 迷 信 (Aberglaube)」と 呼 ばれて<br />

きたものに 他 ならない。 本 来 、 科 学 は 一 定 の 方 法 に 従 った 個 別 認 識 を 行 うに 過 ぎないので<br />

あり、もしその 認 識 が 全 体 認 識 にまで 絶 対 化 されるならば、それはもはや 迷 信 なのである。<br />

これはまた、「 悟 性 信 仰 (Verstandesglaube)」および「 無 への 信 仰 (Glaube an das Nichts)」<br />

とも 表 現 されている(GSZ, 140)。「<strong>ヤスパース</strong>は、ナチズムの 時 代 に 出 版 の 中 断 を 余 儀 な<br />

くされた 後 に、 科 学 的 迷 信 という 自 らの 根 本 概 念 を 時 代 の 本 質 的 な 記 述 にまで 仕 上 げてい<br />

る」(Hermann-Josef Seideneck, Karl Jaspers' Begriff vom Wissenschaftsaberglauben angesichts der<br />

gegenwärtigen Menschheitsprobleme, in : Cesana / Walters(Hrsg.), Karl Jaspers: Geschichtliche<br />

Wirklichkeit / Historic Actuality, Würzburg, Königshausen & Neumann, 2008, S. 173)と 指 摘 され<br />

る 通 り、 科 学 的 迷 信 は<strong>ヤスパース</strong>の 時 代 批 判 において 最 も 重 要 な 概 念 となっている。<br />

6 この 問 題 に 関 して、 別 の 箇 所 では 次 のように 言 われている。「しかし、たとえ 教 会 が 世 界<br />

内 の 人 類 の 秩 序 のために 何 を 成 し 遂 げようとも、 人 はこれらの 秩 序 が 人 間 の 産 物 であると<br />

いうことを 忘 れてはならない」(A, 358)。こうした 見 方 は、「この 世 界 内 に 現 象 するすべて<br />

のものは、たとえそれらが 神 の 代 理 者 と 称 されようとも、それらが 現 実 的 にどのようにし<br />

てあるのか、どのようにして 生 じたのか、どんな 成 果 を 上 げ、またどのように 作 用 するの<br />

かといった 問 いただしを 免 れない」(III, 126)という、『 哲 学 』 以 来 の 立 場 に 支 えられたも<br />

のと 考 えられる。また 良 心 の 問 題 に 即 しても、「 良 心 の 声 は 神 の 声 ではない。 良 心 が 語 る 際<br />

には、まさに 神 性 は 沈 黙 する」(II, 272)と 言 われ、 神 から 語 りかけられた 事 柄 が 万 人 に 妥<br />

当 するという 主 張 やそれへの 服 従 の 要 求 に 対 して、「しかし、 世 界 の 中 で 人 間 たち 及 び 彼 ら<br />

の 社 会 的 な 諸 制 度 によって 掲 げられる 要 求 は、それらにおいて 主 張 される 神 の 声 ではない」<br />

(II, 273)と 言 われている。なお、この 良 心 の 問 題 に 関 しては、 次 のものを 参 照 のこと。<br />

藤 田 俊 輔 「<strong>ヤスパース</strong>の 良 心 論 」『 宗 教 哲 学 研 究 』 第 30 号 、 昭 和 堂 、2013 年 、110‐122<br />

頁 。<br />

7 ナチズムの 圧 政 における「 絶 え 間 ない 危 機 の 感 覚 が、<strong>ヤスパース</strong>の 注 意 をもう 一 度 聖 書<br />

に 向 かわせることを 促 し」、 特 に「 世 間 一 般 の 政 治 的 状 況 と、 彼 の 妻 に 差 し 迫 った 特 殊 な 危<br />

機 という 二 つのものが、 聖 書 に 対 する、 特 に 旧 約 聖 書 の 人 物 に 対 する 彼 の 関 心 を 強 めた」<br />

と 指 摘 される 通 り(Godfrey Robert Carr, Karl Jaspers as an intellectual critic : the political<br />

dimension of his thought, Frankfurt am Main, Bern, New York, P. Lang, 1983. p. 72)、<strong>ヤスパース</strong><br />

はナチズムの 時 代 に 聖 書 の 思 想 に 急 激 に 接 近 するのであるが、この 聖 書 の 思 想 はそれ 以 降<br />

も 彼 の 宗 教 哲 学 的 思 索 において 重 要 な 位 置 を 占 めることになり、『 原 爆 』においても 聖 書 が<br />

引 き 合 いに 出 されつつ 様 々な 議 論 が 展 開 されている。<br />

8 <strong>ヤスパース</strong>は、こうした 放 棄 されるべき 諸 々の 事 柄 が、「 無 理 やりのように 思 われる 強 情<br />

さでもって、―キェルケゴールの 弁 証 法 的 な、 不 条 理 という 概 念 性 によって 養 われつつ<br />

― 神 学 者 たちによってなおも 保 持 されているように 見 える」(A, 356)と 指 摘 しているが、<br />

これはカール・バルトを 代 表 とした 弁 証 法 神 学 に 対 する 批 判 的 見 解 を 意 味 しているものと<br />

考 えられる。また 別 の 箇 所 では、 教 会 的 宗 教 の 好 機 のために 放 棄 すべきである 事 柄 に 関 し<br />

て、 次 のように 言 われている。「それゆえ、 諸 々の 教 会 は 無 条 件 の 連 帯 のもとでのみ、 自 ら<br />

の 特 殊 な 形 態 において 自 身 の 優 位 を 要 求 すること、あるいは 一 つの 神 学 が 普 遍 妥 当 的 な 真<br />

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理 を 要 求 すること、あるいはカトリック 的 な 見 解 を 要 求 することといった、こうしたあら<br />

ゆる 要 求 を 放 棄 する 中 で、 真 実 に 神 を 証 することができるのであり、また 超 越 者 による 救<br />

済 がそこから 生 じるであろう 人 間 のかの 深 みにまで 働 きかけることができるのである」(A,<br />

355)。<br />

9 H・ザーナーが 指 摘 しているように、<strong>ヤスパース</strong>の 哲 学 には、「 形 而 上 学 的 真 理 のあらゆ<br />

る 客 観 化 を 取 り 除 き、こうして 信 仰 において、また 伝 承 されてきた 信 仰 においても、 排 他<br />

的 唯 一 性 のあらゆる 形 式 を 取 り 去 るという 課 題 」があるのであって、こうした 課 題 にとっ<br />

て 特 に 重 要 なのは、「 従 来 の 信 仰 や 伝 統 的 な 信 仰 の 形 成 物 、 諸 々の 宗 教 を 根 絶 することでは<br />

決 してなく、それらを 他 の 信 仰 に 対 して 開 放 させること」に 他 ならないのである(Hans<br />

Saner, Karl Jaspers : in Selbstzeugnissen und Bilddokumenten, Reinbek bei Hamburg, Rowohlt,<br />

1970, S. 106)。<br />

10 この 神 の 恩 寵 に 関 しても、 一 定 の 議 論 が 展 開 されている。「 人 間 は 過 大 な 要 求 をされて<br />

はならない」とし、「 人 間 に 過 大 な 要 求 をせず、むしろ 人 間 に 神 の 恩 寵 を 与 えるのが 神 の 慈<br />

悲 」であるとする 風 潮 に 対 して(A, 357)、<strong>ヤスパース</strong>は 次 のような 考 えを 提 示 している。<br />

すなわち、「 負 い 目 の 赦 しとしての 神 の 恩 寵 というものは 理 解 し 得 ない。 我 々が 知 っている<br />

赦 しというのは、 人 間 との 関 わりにおいてのものである。つまり、それは 隠 し 立 てのない<br />

相 互 の 赦 し 合 いという 超 克 的 な 一 致 における 深 い 交 わりなのである。〔 中 略 〕 暗 号 において<br />

は、 人 間 が 相 互 に 赦 し 合 う 場 合 には、それは 神 の 恩 寵 と 呼 ばれ 得 る。しかし、 人 間 がそれ<br />

を 行 わないならば、 神 の 恩 寵 に 対 する 考 えは、 人 間 的 な 交 わりの 非 妥 協 的 な 要 求 を 前 にし<br />

ての 言 い 逃 れを 意 味 することがあり 得 る」(ibid.)。ここで<strong>ヤスパース</strong>が 主 張 しているのは、<br />

神 の 恩 寵 に 関 する 誤 った 考 えによって「 人 間 に 対 する< 過 大 な 要 求 >」(ibid.)を 放 棄 して<br />

はならず、むしろ 現 代 の 危 機 的 状 況 に 面 して、この 要 求 を 引 き 受 ける 中 で 理 性 的 な 思 惟 へ<br />

と 転 換 していく 必 要 があるということである。ここでも、「 神 の 意 志 」に 関 する 議 論 と 同 様<br />

に、 神 の 恩 寵 が 暗 号 として 解 読 されている。<br />

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