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ビザンティン聖堂の儀礼化研究序説 - 早稲田大学リポジトリ

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123<br />

ビザンティン 聖 堂 の 儀 礼 化 研 究 序 説<br />

―― 後 期 ビザンティン 聖 堂 (13 ~ 15 世 紀 )における 儀 礼 化 の 進 展 ――<br />

菅 原<br />

裕 文<br />

はじめに<br />

本 研 究 の 目 的 は、 副 題 に 示 されている 通 り、 後 期 ビザンティンにおいて 聖 堂 の 儀 礼 化 がいかに<br />

進 展 したのか、その 諸 相 を 明 らかにすることである。ここで 言 う「 儀 礼 化 Ritualization」とは「 典<br />

礼 の 変 化 に 伴 う 建 築 形 態 の 変 化 ・ 新 図 像 の 創 出 ・ 図 像 プログラムの 規 格 化 」を 指 す 1 。このビザン<br />

ティン 聖 堂 の 儀 礼 化 という 現 象 は 中 期 ビザンティン(9 ~ 12 世 紀 ) 以 降 に 観 察 される。<br />

大 局 的 に 見 て、 中 期 ビザンティンはビザンティン 聖 堂 の 変 革 期 にあたる。 聖 堂 建 築 はバシリカ 式<br />

テ ン プ ロ ン<br />

から 内 接 十 字 式 へと 移 行 し、 聖 所 前 面 の 内 陣 障 柵 をイコンや 幕 で 覆 い 隠 すようになる。これは 堂<br />

内 で 準 備 された 聖 祭 品 (パンとワイン)を 主 祭 壇 に 搬 入 する 行 進 儀 礼 の 一 般 化 や、 主 祭 壇 で 行 わ<br />

れる 聖 変 化 や 聖 体 奉 献 を 会 衆 の 視 線 から 隠 す 方 針 の 採 択 等 、 典 礼 の 執 行 方 式 の 変 化 と 関 わってい<br />

る。その 結 果 、 聖 所 内 での 儀 式 の 意 義 を 図 解 する 図 像 が 新 たに 創 出 されて、それぞれ 聖 所 に 固 有<br />

の 場 を 占 め、 図 像 プログラムは 高 度 に 規 格 化 された。<br />

ビザンティン 聖 堂 の 儀 礼 化 に 関 する 研 究 は、 中 期 のカッパドキアにおいて 最 も 進 展 している。<br />

C・ジョリヴェ = レヴィは 250 に 及 ぶ 岩 窟 聖 堂 の 聖 所 に 配 された 図 像 をカタログ 化 し 2 、 辻 佐 保 子<br />

氏 は 彼 女 の 研 究 に 基 づいて 同 地 への「 聖 体 の 秘 蹟 」の 導 入 を 論 じた 3 。 筆 者 かつてもエレウサ 型 聖<br />

母 子 像 が 聖 体 準 備 室 に 配 されることを 指 摘 し 4 、このプラグラムの 成 立 に 先 の 行 進 儀 礼 が 深 く 関 与<br />

していることを 明 らかにした 5 。<br />

しかし、12 世 紀 にはカッパドキアの 修 道 文 化 が 衰 退 するため、 後 期 ビザンティン(13 ~ 15 世<br />

紀 )に 至 る 儀 礼 化 の 連 続 性 はこれまで 語 られてこなかった。 筆 者 は 東 地 中 海 域 やバルカン 半 島 で<br />

の 実 地 調 査 を 通 じ、 後 期 の 聖 堂 でも 中 期 には 見 られなかった 図 像 やサイクルが 挿 入 され、 新 たな<br />

プログラムが 模 索 されているという 現 象 を 各 所 で 目 の 当 たりにした。 後 期 の 聖 堂 ではイコノスタ<br />

シスが 巨 大 化 し、 聖 所 周 辺 の 建 築 形 態 は 複 雑 化 する。 図 像 プログラムも 中 期 にはキリスト 伝 にお<br />

ドデカオルトン<br />

ける 主 要 な 祝 日 から 構 成 される 十 二 大 祭 サイクルが 主 流 だったが、 後 期 には 新 たに 創 出 されたマ<br />

1<br />

2<br />

C. Walter, Art and Ritual of the Byzantine Church, London, 1982.<br />

C. Jolivet-Lévy, Les églises Byzantines de Cappadoce: le programme iconographique de l’abside et de ses abords,<br />

Paris, 1991.<br />

3<br />

辻 佐 保 子 「カッパドキアのアプシスにおける 聖 体 の 秘 蹟 に 関 するテーマの 導 入 」『お 茶 の 水 女 子 大 学 人 文 学<br />

部 紀 要 』 第 44 号 (1991 年 ) 初 出 、『ビザンティンの 表 象 世 界 』 岩 波 書 店 、1993 年 、135-174 頁 。<br />

4<br />

5<br />

拙 稿 「カッパドキアにおける 慈 愛 の 聖 母 の 受 容 」『 美 術 史 』 第 162 冊 (2007 年 )、324-337 頁 。<br />

拙 稿 「カッパドキア 岩 窟 聖 堂 における 聖 母 子 像 の 役 割 」『 鹿 島 美 術 研 究 』 年 報 27 号 別 冊 (2009 年 )、314-324 頁 。


124<br />

リアや 聖 人 の 伝 記 サイクルが 挿 入 されて 饒 舌 なまでに 多 層 化 する。こうした 一 般 的 な 傾 向 と 筆 者<br />

の 目 撃 した 変 化 を 儀 礼 化 の 定 義 に 照 らせば、 後 期 ビザンティンでも 典 礼 や 図 像 に 対 する 理 解 が 改<br />

まり、 儀 礼 化 が 中 期 以 上 に 進 展 ・ 深 化 したと 考 えられる。<br />

後 期 ビザンティン 聖 堂 の 儀 礼 化 研 究 の 第 一 歩 となる 本 稿 の 目 的 は、 初 期 ビザンティン(4 ~ 8<br />

世 紀 )から 遡 って 聖 所 のプログラムの 変 遷 を 辿 り、 過 去 のプログラムと 比 較 することで、 後 期 ビ<br />

ザンティン 聖 堂 の 特 質 や 個 性 を 明 確 化 すること、 換 言 するならば、 以 後 の 研 究 全 ての 基 礎 となる<br />

序 説 を 書 くことである。 本 稿 では 論 述 の 対 象 を 聖 堂 東 側 に 位 置 する 聖 所 の 主 副 アプシスに 限 定 す<br />

る。それは 聖 所 が 聖 体 の 秘 蹟 に 関 連 する 儀 式 を 執 り 行 う 堂 内 で 最 も 多 機 能 な 場 所 であること、そ<br />

れゆえに 儀 礼 化 の 進 展 を 最 も 如 実 に 反 映 すると 想 定 されることに 起 因 する。 隣 接 する 図 像 と 呼 応<br />

して 新 たな 意 味 を 創 出 するため、 主 副 アプシス 周 辺 の 図 像 も 重 要 であることは 言 うまでもないが、<br />

記 述 が 煩 雑 になるのを 避 けるために 敢 えて 省 いた。<br />

なお、 稿 を 起 こすにあたり、 時 代 と 地 域 を 問 わず、362 作 例 を 集 めてリスト 化 した。 主 副 アプシ<br />

スに 限 定 したとはいえ、データは 膨 大 な 件 数 に 上 り、 本 稿 に 付 すことはできなかった。 収 集 資 料<br />

のデータは「Iconographic Program of the Sanctuary of Byzantine Churches」 6 という 別 稿 を 準 備<br />

しているので、そちらもあわせて 参 照 されたい。<br />

初 期 ビザンティン(4 ~ 8 世 紀 )<br />

収 集 資 料 において、 初 期 ビザンティンの 図 像 プログラムを 有 する 聖 堂 は 43 例 を 数 える。 建 築<br />

様 式 は 単 廊 式 が 28 例 と 最 も 多 く、 三 廊 式 バシリカ 8 例 、 集 中 式 2 例 、ドームド・バシリカ 2 例 、<br />

三 葉 形 が 1 例 、 十 字 形 1 例 、 内 接 十 字 式 1 例 となる。 初 期 ビザンティンの 作 例 は 首 都 コンスタン<br />

ティノポリスにはなく、ローマやエジプト、カッパドキアといった 周 縁 部 に 多 く 残 存 する。<br />

アプシスの 図 像 プログラムは、コンクとコンク 下 部 とを 上 下 二 段 に 分 割 して 装 飾 された 聖 堂 が<br />

29 例 、コンクのみを 装 飾 する、あるいはアプシス 全 体 を 一 つの 主 題 が 占 める 聖 堂 が 15 例 となる。<br />

イタリアでは、 大 規 模 なバシリカ 式 の 聖 堂 でもモザイクでコンクのみを 飾 り、コンク 下 部 を 大 理<br />

石 板 で 覆 う 傾 向 がある。これに 対 して、カッパドキアやエジプトの 聖 堂 は 概 して 規 模 が 小 さいた<br />

め、2 層 のプログラムが 採 られなかったと 考 えられる。<br />

初 期 ビザンティンにおいて、アプシスには「 主 の 顕 現 ( テオファニア )」を 表 す 主 題 が 置 かれる。<br />

ナクソス、パナギア・ドロシアニ 聖 堂 (7 世 紀 、 図 1) 7 はアプシスを 上 下 二 段 に 分 節 して「 昇 天 」<br />

を 表 す。 保 存 状 態 は 芳 しくないものの、コンク 上 段 には、 光 背 を 帯 びて 玉 座 に 坐 すキリストが 二<br />

人 の 天 使 に 天 へと 運 ばれる 様 子 が 確 認 できる。 下 方 には 十 二 使 徒 が 配 され、 天 に 昇 るキリストを<br />

6<br />

ヨーロッパ 中 世 ・ルネサンス 研 究 所 編 『エクフラシス 別 冊 第 1 号 : 資 料 集 第 1 巻 ― 宗 教 運 動 の 作 用 ・ 反 作 用 』<br />

(2013 年 ) 所 収 予 定 。<br />

7<br />

N. Drandakis, “Panagia Drosiani,” in ed. by M. Chatzidakis, Naxos, Athens, 1999, pp. 18-26.


125<br />

図 1 パナギア・ドロシアニ 聖 堂 7 世 紀 ナクソ<br />

ス<br />

図 2 オシオス・ダヴィド 聖 堂 5 世 紀 テサロ<br />

ニキ<br />

見 上 げている。カッパドキア、イルタシュ、イ<br />

リヤ 昇 天 聖 堂 (8 世 紀 ) 8 もパナギア・ドロシア<br />

ニと 同 様 のプログラムを 採 るが、こちらでは 四<br />

人 の 天 使 がキリストを 天 に 運 んでいる。<br />

使 徒 行 伝 1 章 11 節 「あなたがたから 離 れて<br />

天 に 上 げられたイエスは、 天 に 行 かれるのをあ<br />

なたがたが 見 たのと 同 じ 有 様 で、またおいでに<br />

なる」という 天 使 の 言 葉 が 示 す 通 り、 昇 天 は 再<br />

臨 のイメージとも 重 なる。 再 臨 するキリストは、<br />

マンドルラ<br />

「 昇 天 」のキリスト 同 様 、 光 背 を 帯 びて 天 地 あ<br />

るいは 玉 座 に 坐 し、エゼキエルがケバル 川 の 辺<br />

テトラモルフ<br />

で 見 た 幻 視 で 言 及 される 四 活 物 /ケルビム――<br />

有 翼 の 人 、 獅 子 、 牛 、 鷲 ――、を 伴 う(エゼキ<br />

エル 書 1 章 5-14 節 、10 章 12 節 )。こうしたタ<br />

マイエスタス・ドミニ<br />

イプのキリスト 像 は 図 像 学 的 に「 主 の 荘 厳 」、<br />

あるいは「 栄 光 のキリスト」と 呼 ばれる。エル<br />

サレムのキリロスがアプシスを 裁 きのため 再 臨<br />

するキリストを 迎 える 栄 光 の 座 に 準 えた 9 のを<br />

反 映 するように、この「マイエスタス」をアプ<br />

シスに 採 用 した 聖 堂 が 最 も 多 く、13 例 に 及 ぶ。<br />

収 集 資 料 における 最 古 のマイエスタスは、テ<br />

サロニキ、オシオス・ダヴィド 聖 堂 (5 世 紀 、 図 2)<br />

の 作 例 である。キリストは 髯 のない、いわゆる<br />

アポロン 型 のキリストだが、マンドルラを 帯 び、<br />

天 を 象 徴 する 虹 に 坐 し、 地 を 象 徴 する 球 体 に 足<br />

を 載 せる。 右 手 で 祝 福 し、 左 手 に 広 げた 巻 物 を<br />

持 つ。マンドルラは 左 上 に 人 、 左 下 に 獅 子 、 右<br />

上 に 鷲 、 右 下 に 牛 とテトラモルフを 伴 う。キリストの 左 右 には 預 言 者 エゼキエルとハバククが 置<br />

かれている。コンク 下 部 が 欠 損 するため、アプシス 全 体 がどのようなプログラムを 構 成 していた<br />

かは 不 明 だが、エジプト、バウィト、アパ・アポロン 修 道 院 礼 拝 堂 20 番 ( 6 世 紀 、 図 3) 10 は 先 の「 昇 天 」<br />

8<br />

C. Jolivet-Lévy, op. cit., Paris, 1991, pp. 167-169, pls. 102-103; G. Millet, La dalmatique de Vatican. Les élus,<br />

images et croyances, Paris, 1945, p. 38, n. 5 and p. 39, n. 3.<br />

9<br />

10<br />

Millet, op. cit., p. 38, n. 5.<br />

G. A. Wellen, Theotokos: eine ikonographische Abhandlung über das Gottesmutterbild in frühchristlicher Zeit,


126<br />

図 と 酷 似 する。 玉 座 に 坐 すキリストは 右 手 で 祝 福<br />

し、 左 手 に 聖 書 を 抱 える。マンドルラにはテトラ<br />

モルフが 伴 い、 左 右 に 太 陽 と 月 の 擬 人 像 が 配 され<br />

る。キリストの 真 下 には、 両 腕 を 広 げてオランス<br />

の 姿 勢 をとるブラケルニティッサ 型 のマリアが 置<br />

かれ、その 左 右 に 六 人 ずつ 正 面 観 の 使 徒 が 並 ぶ。<br />

使 徒 たちの 背 後 左 に 聖 人 が 三 人 、 右 に 二 人 の 聖 人<br />

が 控 えている。 同 じアパ・アポロン 修 道 院 礼 拝<br />

堂 6 番 ( 6 世 紀 ) 11 では、アプシスを 上 下 に 二 分 し、<br />

コンクにはマイエスタスと 二 天 使 を 配 する。コ<br />

ンク 下 部 には 同 様 に 十 二 使 徒 を 並 べるが、こち<br />

らの 中 央 に 配 されているのは 聖 母 子 坐 像 である。<br />

「マイエスタス・ドミニ」の 代 わりに「キリスト・<br />

パントクラトール」を 配 した 作 例 も 8 例 残 存 する。<br />

「パントクラトール」とは、 右 手 で 祝 福 し、 左 手<br />

に 聖 書 を 抱 えた 長 髪 長 髯 のキリストを 描 くイコ<br />

ン 的 な 図 像 である。これらの 作 例 は 説 話 的 な 文<br />

脈 を 持 たない「パントクラトール」を 配 するこ<br />

図 3 アパ・アポロン 修 道 院 礼 拝 堂 20 番<br />

バウィト<br />

6 世 紀<br />

とで「 昇 天 = 再 臨 」の 超 次 元 化 を 図 ったヴァリ<br />

図 4 サンティ・コスマ・エ・ダミアーノ 聖 堂<br />

526 ~ 530 年 頃 ローマ<br />

エーションと 考 えられる。サンティ・コスマ・エ・<br />

ダミアーノ 聖 堂 (526 ~ 530 年 頃 、 図 4)では、 神 秘 的 な 雲 間 にキリスト 立 像 が 描 かれ、キリス<br />

トの 左 下 方 にパウロに 誘 われるコスマスとテオドロス、 右 下 方 にペテロに 導 かれるダミアノスと<br />

教 皇 フェリックス 4 世 と 時 空 を 越 えた 聖 人 たちが 配 されている。アプシス 下 部 中 央 には 神 の 小 羊<br />

が 描 かれ、 両 端 のエルサレムとベツレヘムから 六 頭 ずつ 中 央 に 向 かって 小 羊 が 並 ぶ。この 小 羊 の<br />

群 は「 昇 天 = 再 臨 」の 証 人 たる 使 徒 とも、サンタ・プデンツィアーナ 聖 堂 アプシス(5 世 紀 )に<br />

描 かれた 天 上 のエルサレムで 玉 座 に 坐 すキリストと 十 二 使 徒 の 象 徴 的 な 名 残 とも 解 せよう。こう<br />

したプログラムはイタリア 独 自 のもので、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノ 聖 堂 、サン・ヴェ<br />

ナンツィオ 礼 拝 堂 (640 ~ 642 年 頃 )やサンタ・プラッセーデ 聖 堂 (820 年 頃 )に 引 き 継 がれて<br />

いく。<br />

「 昇 天 = 再 臨 」の 主 題 にナラティヴな 要 素 を 付 加 する 使 徒 をコンク 下 部 に 置 く 作 例 は 12 例 を 数<br />

えるが、コンクに「パントクラトール」を 配 する 場 合 、その 非 説 話 性 ゆえか、コンク 下 部 は 使 徒<br />

から 離 れて 多 彩 になる。アパ・アポロン 修 道 院 礼 拝 堂 12 番 アプシス(6 世 紀 )はその 大 半 が 失<br />

Utrecht/Antwerpen, 1960, p. 170, fig. 31a.<br />

11<br />

Ibid., p. 171, fig. 31b.


127<br />

図 5 アギオス・ステファノス 聖 堂 8 世 紀 中 葉<br />

ジェミル<br />

図 6 サンタポリナーレ・イン・クラッセ 聖 堂<br />

6 世 紀 中 葉 ラヴェンナ<br />

われているものの(キリスト 立 像 と 二 天 使 ?)、<br />

救 世 主 の 降 誕 と 終 末 における 再 臨 の 預 言 を 記 し<br />

た 巻 物 を 手 にした 十 六 人 の 預 言 者 が 配 される。<br />

アプシス・コンクに「パントクラトール」 半 身<br />

像 と 聖 人 のメダイヨンを 配 するサッカラのアパ・<br />

エレミヤ 修 道 院 僧 房 1727 番 (7 世 紀 )では、コ<br />

ンク 下 部 に 極 めて 礼 拝 像 的 な 性 格 の 強 い 二 天 使<br />

と 二 聖 人 を 伴 う 聖 母 子 坐 像 を 描 いている。<br />

十 字 架 を 中 心 的 モティーフとするプログラム<br />

も 5 例 確 認 できる。カッパドキア、アヴジラル( 現<br />

ギョレメ)、メザルラル・アルトゥ・キリセの<br />

パ レ ク リ シ オ ン<br />

葬 送 礼 拝 堂 (7 世 紀 末 ) 12 では、アプシス 上 部 に<br />

マンドルラを 思 わせる 同 心 円 状 のメダイヨンに<br />

十 字 架 が 描 かれ、コンク 下 部 にブラケルニティッ<br />

サ 型 のマリア 像 を 置 く。ジェミル、アギオス・<br />

ステファノス 聖 堂 (8 世 紀 中 葉 、 図 5) 13 は 落 書 に<br />

より 劣 悪 な 保 存 状 態 にあるが、メザルラル・ア<br />

ルトゥと 同 様 のマンドルラ 状 メダイヨンを 伴 う<br />

十 字 架 の 下 方 に、 聖 母 子 坐 像 、 二 天 使 、 洗 礼 者<br />

ヨハネが 二 度 繰 り 返 し 描 かれている。 前 者 のブ<br />

ラケルニティッサ 型 は「 昇 天 = 再 臨 」のイメージを 想 起 させ、ジェミルの 左 に 描 かれた 洗 礼 者 ヨ<br />

ハネは「 見 よ、 世 の 罪 を 取 り 除 く 神 の 小 羊 」(ヨハネ 書 1 章 29 節 )と 記 した 巻 物 を 持 つことから、<br />

これらの 十 字 架 もまた「 顕 現 」の 文 脈 にあることが 知 れる。さらに、 上 引 のサンタ・プデンツィ<br />

アーナやラヴェンナ、ガッラ・プラチディア 廟 (440 年 頃 )のドームに 描 かれた 十 字 架 にテトラ<br />

モルフが 伴 っていることからも、 初 期 ビザンティンにおいては 十 字 架 が「 昇 天 = 再 臨 」のキリス<br />

トの 象 徴 的 な 表 現 であることが 窺 える。<br />

ラヴェンナのサンタポリナーレ・イン・クラッセ 聖 堂 (6 世 紀 中 葉 、 図 6) 14 も 十 字 架 によって<br />

キリストを 象 徴 的 に 表 している。 神 秘 的 に 輝 く 雲 間 にメダイヨンを 伴 う 十 字 架 が 浮 かび、 左 右 を<br />

エリヤとモーセが 取 り 巻 く。 十 字 架 の 左 下 に 小 羊 が 一 頭 、 右 下 に 二 頭 描 かれているが、これらは<br />

それぞれペテロ、ヤコブ、 福 音 書 記 者 ヨハネとされる。 十 字 架 の 真 下 にはアポリナリスがオラン<br />

12<br />

13<br />

14<br />

2005.<br />

Jolivet-Lévy, op. cit., pp. 75-76, pl. 56.1.<br />

Ibid., pp. 161-163, pls. 100-101.1.<br />

A. Michael, Das Apsismosaik von S. Apollinare in Classe: Seine Deutung im Kontext der Liturgie, Frankfurt,


128<br />

スの 姿 勢 で 描 かれ、 左 右 に 六 頭 ずつ 小 羊 が 並 ぶ。これはシナイ 山 、アギア・エカテリニ 修 道 院 (6<br />

世 紀 )のアプシスを 飾 る「 変 容 」の 象 徴 的 な 表 現 であり、 変 容 がキリスト 自 ら 神 であることを 明<br />

かした 出 来 事 として 記 念 されていることに 鑑 みれば、 初 期 ビザンティンでは「 変 容 」も「 顕 現 」<br />

の 一 翼 を 担 っていたことが 窺 える。<br />

聖 母 子 像 をアプシスに 配 するプログラムが 定 型 化 するには、 中 期 ビザンティンを 待 たねばなら<br />

ない。 初 期 ビザンティンにおいてアプシスに 聖 母 子 像 を 置 く 聖 堂 は 6 例 と 少 なく、 全 てが 6 世 紀<br />

以 降 の 作 例 である。イコノグラフィもまちまちで、 聖 母 子 坐 像 が 3 例 、ガラクトトロフーサ 型 ( 幼<br />

子 に 授 乳 するマリア 像 )が 2 例 、キリオティッサ 型 ( 正 面 観 の 聖 母 子 立 像 )が 1 例 、ブラケルニ<br />

ティッサ 型 が 1 例 、オディギトリア 型 ( 左 腕 に 幼 子 を 抱 くマリア 像 )が 1 例 となる。クロアチア、<br />

ポレチ、エウフラシアーナ(6 世 紀 中 葉 )、キプロス、キティ、パナギア・アンゲロクティスト<br />

ス 聖 堂 (6 世 紀 )、 同 じくキプロスのリトランコミ、パナギア・カナカリア 聖 堂 (6 世 紀 )の 他 は、<br />

小 規 模 な 聖 堂 のアプシスを 飾 るに 過 ぎない。アプシスにガラクトトロフーサ 型 を 描 くのはコプト<br />

特 有 のプログラムであり、ビザンティン 本 土 では 全 時 代 を 通 じて 現 れなかった。<br />

中 期 ビザンティン(9 ~ 12 世 紀 )<br />

収 集 資 料 において、 中 期 ビザンティンのプログラムを 有 する 聖 堂 は 150 例 ある。 中 期 ビザンティ<br />

ンにおいても 小 規 模 な 単 廊 式 が 59 例 と 最 も 多 い。 次 いで 内 接 十 字 式 32 例 、 十 字 形 20 例 、 二 連<br />

単 廊 式 11 例 、 三 廊 式 バシリカ 10 例 、 横 断 ヴォールト 式 9 例 、ドームド・バシリカ 7 例 、 集 中 式<br />

2 例 、 三 葉 形 が 2 例 、 四 葉 形 が 1 例 となる。 中 期 ビザンティンの 聖 堂 建 築 に 見 られる 著 しい 変 化 は、<br />

ギリシア 十 字 を 内 包 する 内 接 十 次 式 が 各 地 に 普 及 したことに 併 せて、 至 聖 所 で 行 われる 聖 体 の 聖<br />

テ ン プ ロ ン<br />

変 化 の 儀 式 から 信 徒 の 視 線 を 遮 るように 内 陣 障 柵 にイコンや 幕 が 設 置 されたこと、 明 確 な 典 礼 上<br />

の 機 能 を 有 する 新 たな 祭 祀 空 間 、すなわち 副 アプシスが 聖 所 に 導 入 されたことである。また、 中<br />

期 ビザンティンにおいて 二 連 単 廊 式 の 聖 堂 が 初 出 するが、これは 単 廊 式 を 南 北 に 並 べたカッパド<br />

キアにおいてよく 見 られる 建 築 様 式 である。<br />

アプシスの 図 像 プログラム 構 成 は、コンクとコンク 下 部 を 分 割 しない 1 層 構 成 が 40 例 、2 層<br />

構 成 が 72 例 、3 層 構 成 が 28 例 、4 層 構 成 が 2 例 、 剝 落 や 欠 損 などにより 不 明 のものが 9 例 である。<br />

図 像 プログラムの 上 では、 初 期 ビザンティンでは 大 規 模 な 聖 堂 であろうと 2 層 構 成 が 限 界 であっ<br />

たのに 対 し、 中 期 ビザンティンでは「 使 徒 の 聖 体 拝 領 」という 新 たな 図 像 がアプシスの 中 間 帯 に<br />

挿 入 されるようになったこと、それまで 使 徒 の 座 だったコンク 下 部 に 主 教 が 配 されるようになっ<br />

たことが 最 大 の 特 徴 である。<br />

アプシスのコンクに 配 される 図 像 は 顕 現 の 主 題 が 72 例 、 続 いて 聖 母 子 像 54 例 、「 使 徒 の 聖 体<br />

拝 領 」が 2 例 、 欠 損 や 判 別 不 明 が 9 例 である。 件 数 の 上 では、 顕 現 をアプシスに 配 する 聖 堂 が 最<br />

も 多 いが、カッパドキア 以 外 の 地 域 では 9 例 しか 見 いだすことはできない。 顕 現 の 主 題 の 内 訳 は、<br />

「マイエスタス」28 例 、「デイシス」28 例 、「パントクラトール」9 例 、「 昇 天 」6 例 、 十 字 架 1 例


129<br />

図 7 ハチュル・キリセ 10 世 紀 初 頭 クズル・<br />

チュクル<br />

図 8 アイヴァル・キリセ 北 礼 拝 堂<br />

913 ~ 920 年 ギュリュ・デレ<br />

となる。<br />

初 期 から 中 期 にかけてのカッパドキアにおい<br />

て、「マイエスタス」は 旧 約 の 預 言 や 典 礼 式 文 の<br />

イメージを 取 り 込 み、より 複 雑 な 形 で 完 成 を 見<br />

る。クズル・チュクルのハチュル・キリセ(10<br />

世 紀 初 頭 、 図 7) 15 に 状 態 の 良 い「マイエスタス」<br />

が 残 る。コンク 中 央 には、 型 どおりマンドルラ<br />

を 帯 びて 玉 座 に 坐 すキリストが 配 されている。<br />

コプトの 作 例 がマンドルラの 外 側 にテトラモル<br />

フを 伴 うのと 異 なり、こちらではマンドルラの<br />

内 側 に 置 かれる。マンドルラの 下 方 左 右 には、<br />

エゼキエルの 幻 視 にある 燃 える 二 重 の 車 輪 (エ<br />

ゼキエル 書 1 章 15-21 節 )、イザヤの 幻 視 で 言 及<br />

される 六 翼 のセラフィム(イザヤ 書 6 章 1-4 節 )<br />

が 並 ぶ。コンク 左 端 に 皇 帝 風 のロロスを 纏 い、<br />

右 手 に 軍 旗 、 左 手 に 宝 珠 を 持 つミカエル、 右 端<br />

に 同 様 の 装 束 でガブリエルが 配 されるが、 両 者<br />

は 典 礼 式 文 で 言 及 される 各 種 の 天 使 を 代 表 する。<br />

コンク 下 部 中 央 のニッチには 十 字 架 が 描 かれ、<br />

左 に 洗 礼 者 ヨハネ、 右 にブラケルニティッサ 型<br />

のマリアが 置 かれる。 加 えて 十 二 使 徒 と 二 聖 人<br />

が 立 ち 並 ぶが、それは 初 期 のプログラムの 残 滓 だろう。クズル・チュクルと 並 行 するギュリュ・<br />

デレのアイヴァル・キリセ 南 礼 拝 堂 (913 ~ 920 年 ) 16 の「マイエスタス」も 同 様 の 構 成 を 採 るが、<br />

アクラマティオ<br />

讃 仰 する 大 天 使 、 四 体 のセラフィム、イザヤ、エゼキエルが 加 えられる。イザヤはセラフィム<br />

の 差 し 出 す 炭 火 により 口 を 清 められ(イザヤ 書 6 章 6-7 節 )、エゼキエルはセラフィムが 差 し 出<br />

す 巻 物 を 口 にする(エゼキエル 書 2 章 9-10 節 )が、これらが 聖 餐 の 予 型 となるのは 言 うまでも<br />

ない。 付 加 される 預 言 者 や 天 使 の 選 択 に 混 同 や 異 同 が 見 られるものの、こうした 典 礼 とも 呼 応 す<br />

リトゥルギッシュ<br />

るタイプの「マイエスタス」を「 典 礼 的 マイエスタス」と 呼 ぶ。<br />

「リトゥルギッシュ・マイエスタス」の 完 成 と 時 期 を 同 じくして、アプシスにおける「 顕 現 」<br />

の 主 題 は 旧 来 の 旧 約 的 、 典 礼 的 なものから 終 末 論 的 な 色 彩 の 濃 いものへと 変 容 する。 初 期 ビザン<br />

ティンでは 見 られなかった「デイシス」の 登 場 である。「デイシス」とは 嘆 願 の 意 のギリシア 語<br />

であり、 図 像 学 的 には 中 央 のキリストに 両 手 を 差 し 出 すマリアと 洗 礼 者 ヨハネによって 構 成 さ<br />

15<br />

16<br />

Jolivet-Levy, op. cit., pp. 50-53, pls. 3.1-4, 39-41.<br />

Ibid., pp. 37-44, pls. 2.3-4, 32-35.


130<br />

れ、「 審 判 」 図 の 中 心 的 モティーフともなる。 上<br />

引 のアイヴァル・キリセ 北 礼 拝 堂 ( 図 8)では、<br />

中 央 に「マイエスタス」、セラフィムから 炭 火 と<br />

巻 物 を 受 け 取 るイザヤとエゼキエルを 配 するが、<br />

大 天 使 の 代 わりにマリアと 洗 礼 者 を 加 えた 点 で<br />

南 礼 拝 堂 のそれと 異 なる。このように「マイエ<br />

コンポジット<br />

スタス」の 枠 組 みを 借 りた「 複 合 的 デイシス」<br />

はやがて 旧 約 ・ 典 礼 的 な 文 脈 から 離 れ、11 世 紀<br />

にはギョレメの 円 柱 式 聖 堂 ( 図 9) 17 が 示 すよう<br />

に 独 立 した 主 題 としてアプシスを 飾 るようになる。<br />

他 方 、カッパドキア 以 外 の 地 域 に 目 を 移 せば、<br />

聖 母 子 像 をアプシスに 配 するプログラムが 定 型 化 している。アプシスに 配 される 聖 母 子 像 のイコ<br />

ノグラフィは 聖 母 子 坐 像 が 30 例 と 最 も 多 く、プラティテラ 型 ( 胸 にキリスト・インマヌエルの<br />

メダイヨンを 伴 うブラケルニティッサ 型 の 亜 種 )8 例 、ブラケルニティッサ 型 7 例 、オディギト<br />

リア 4 例 、キリオティッサ 型 2 例 、 不 明 が 5 例 である。 前 章 で 既 に 見 たように、「アプシス= 聖<br />

母 子 像 」というプログラムは 6 世 紀 に 萌 芽 するが、これが 定 型 化 したのはイコノクラスム(726<br />

~ 843 年 )が 終 結 した 9 世 紀 以 後 のことである。<br />

図 9 カランルク・キリセ 11 世 紀 中 葉<br />

ギョレメ<br />

周 知 の 通 り、イコノクラスムでは 人 像 表 現 の 根 拠 となるキリストの 人 性 、すなわち 神 の 受 肉 が<br />

争 点 となった。 宗 教 的 画 像 を 支 持 する 勢 力 の 論 点 をまとめると 次 のようになろう。 神 の 受 肉 によ<br />

り 不 可 視 の 神 は 目 に 見 えるようになった。それゆえ、 聖 像 の 制 作 は 神 の 受 肉 を 証 しする 行 為 であ<br />

る。かつ、キリストの 到 来 により 旧 約 の 予 型 は 成 就 し、 旧 き 契 約 の 時 代 は 終 焉 を 迎 えた。かつて<br />

は 天 使 や 預 言 者 にしか 見 られなかった 神 を 画 像 によって 見 ることができる。<br />

こうした 聖 像 擁 護 派 の 論 調 は 旧 約 的 な「 顕 現 」 図 像 の 重 要 性 を 減 じせしめる 結 果 となった 18 。<br />

さらに、イコノクラスムに 先 立 つ 692 年 のクィニセクトゥム 公 会 議 において、キリストを 十 字 架<br />

や 小 羊 といった 象 徴 的 な 手 段 や 旧 約 の 予 型 によってではなく 人 性 に 則 した 姿 で 描 くよう 定 められ<br />

た 19 が、この 規 定 ――「 正 統 信 仰 の 勝 利 」とはこの 規 定 の 再 確 認 に 他 ならない――もアプシスに「 顕<br />

現 」を 配 するプログラムの 制 約 となった。 先 のカッパドキアの 作 例 は 修 道 院 的 な 環 境 にあって 神<br />

テオーリア<br />

の 観 想 への 直 接 的 な 要 求 により 保 存 された 古 き 伝 統 の 残 滓 なのである。<br />

イコノクラスムの 神 学 論 争 を 経 て 旧 約 的 な「 顕 現 」 図 像 への 需 要 が 失 われていく 一 方 で、キリ<br />

17<br />

Ibid., pp. 122-125, 128-131, 132-135, pls. 75-76, 80-81, 82-84. 円 柱 式 聖 堂 の 聖 所 のプログラムについては<br />

菅 原 裕 文 、 益 田 朋 幸 「カッパドキア 円 柱 式 聖 堂 群 の 装 飾 プログラムと 制 作 順 」『 美 術 史 研 究 』 第 50 号 (2013 年 )<br />

45-79 頁 を 参 照 されたい。<br />

18<br />

辻 佐 保 子 「エゼキエルとイザヤの 幻 想 ―コプト 修 道 院 ならびにカッパドキア 岩 窟 教 会 アプシス 装 飾 の 一 主<br />

題 と 典 礼 の 関 係 」 前 掲 書 、62-69 頁 。<br />

19<br />

ed. by G. D. Mansi, Sacrorm conciliorum nova et amplissima collectio, vol.11., Florence, 1759, cols. 977-980.


131<br />

図 10<br />

アギア・ソフィア 聖 堂<br />

867 年 イスタンブール<br />

ストの 地 上 での 生 を 保 証 するマリアの 地 位 は 否 応 なく 高 まって<br />

いく 20 。そして、 聖 変 化 の 儀 式 が 執 行 される 祭 壇 の 真 上 に 位 置 す<br />

るアプシスは、 神 の 受 肉 を 直 接 的 に 想 起 させる 聖 母 子 像 の 場 と<br />

パルーシア<br />

なった。 換 言 するならば、アプシスは「 第 二 の 公 現 = 再 臨 」から「 第<br />

パルーシア<br />

一 の 公 現 = 受 肉 」を 表 象 する 場 へと 変 貌 を 遂 げたのである。こ<br />

れはアプシスをキリストが 生 まれたベツレヘムの 洞 窟 に 準 える<br />

総 主 教 ゲルマノス( 在 位 715 ~ 730 年 )の 影 響 もあるだろう 21 。<br />

いずれにせよ、イコノクラスム 直 後 の 復 興 期 、 首 都 コンスタ<br />

ンティノポリス 周 辺 では 聖 母 子 像 がアプシスに 配 された。ニケ<br />

ア( 現 イズニク)のキミシス 聖 堂 (948 年 、 現 在 は 消 失 )では<br />

キリオティッサ 型 が、 続 いて 総 主 教 座 聖 堂 たるアギア・ソフィ<br />

ア 聖 堂 (867 年 、 図 10)では 聖 母 子 坐 像 がアプシスを 飾 った。<br />

総 主 教 座 聖 堂 アプシスに 回 復 された 受 肉 した 神 の 玉 座 たるマリ<br />

アの 堂 々とした 姿 は「アプシス= 聖 母 子 坐 像 」の 定 式 化 に 一 役<br />

買 ったとすら 思 わせる。<br />

中 期 ビザンティン 以 降 、アプシスで 頻 繁 に 目 にするようになるのがブラケルニティッサ 型 であ<br />

る。 初 期 ビザンティンでは「 昇 天 = 再 臨 」 図 像 の 真 下 に 置 かれるのが 一 般 的 であり、このマリア<br />

像 が 単 独 でアプシスのコンクを 飾 る 例 はキプロス、リヴァディア、パナギア・キラ 聖 堂 (6 世 紀 )<br />

で 報 告 されているにすぎない 22 。ミハイル 3 世 ( 在 位 840 ~ 867 年 )の 寄 進 により 大 宮 殿 内 に 建<br />

設 されたファロス 聖 堂 (864 年 、 現 存 せず)のアプシスにはブラケルニティッサ 型 が 描 かれてい<br />

たらしく、 総 主 教 フォティオス( 在 位 858 ~ 867、877-886 年 )は 説 教 で「マリアは 私 達 のため<br />

に 穢 れなき 両 腕 を 拡 げ、 陛 下 に 敵 から 安 全 と 武 勲 をお 与 えになります」 23 と 記 述 する。 記 述 の 後<br />

半 部 分 から 察 するに、ブラケルニティッサ 型 はパトロンに 対 する 執 り 成 しと 恩 寵 の 徴 と 考 えられ<br />

ていたようで、 確 かにテサロニキのパナギア・ハルケオン 聖 堂 (1028 年 )をはじめ、キオス 島<br />

のネア・モニ 修 道 院 (1042 年 以 前 )、カストリアのアギオス・ニコラオス・カスニヅィ 聖 堂 (1170<br />

年 代 ) 等 、ブラケルニティッサ 型 をアプシスに 配 する 聖 堂 はパトロンが 明 らかな 作 例 が 多 い。<br />

「アプシス= 聖 母 子 像 」のプログラムが 定 着 した 後 、11 世 紀 中 葉 から 12 世 紀 にかけてコンク<br />

下 部 の 中 間 帯 に「 使 徒 の 聖 体 拝 領 」という 新 たな 図 像 が 挿 入 されるようになる。 収 集 資 料 では<br />

20<br />

イコノクラスム 以 後 のマリアの 位 置 づけについては、 拙 稿 「エレウサ 型 聖 母 子 像 における 受 難 の 含 意 」『 美<br />

術 史 研 究 』 第 42 号 (2004 年 )130-135 頁 を 参 照 されたい。<br />

21<br />

P. Meyendorff, Gerumanus of Constantinople, On the Divine Liturgy: the Greek Text with Translation,<br />

Introduction, Commentary, New York, 1999, pp. 58-59.<br />

22<br />

23<br />

A. and J. Stylianou, The Painted Churches of Cyprus: Treasures of Byzantine Art, Nicosia, 1997 2 , p. 52.<br />

ed. by B. Λαουρδας, Φοτιου Ομιλιαι, Θεσσαλονικη, 1959, p. 102; ed. and trans. by C. Mango, Photius,<br />

The Homilies of Photius, Patriarch of Constantinople, Cambridg, Mass., 1958, p. 185.


132<br />

13 例 しか 見 いだせないが、もし 聖 所 の 南 北 壁 面<br />

に 残 る 作 例 を 計 上 したとすれば 相 当 な 数 になる。<br />

「 聖 体 拝 領 」のイコノグラフィについては、マケ<br />

ドニア、ネレヅィ、スヴェティ・パンテレイモ<br />

ン 修 道 院 (1164 年 、 図 11)を 例 に 見 よう。 中<br />

央 にキボリウム 付 きの 祭 壇 が 置 かれ、 団 扇 を 手<br />

にした 輔 祭 姿 の 二 天 使 が 控 える。 祭 壇 の 左 には<br />

聖 体 をペテロに 授 けるキリスト、 右 にはワイン<br />

をパウロに 授 けるキリストが 異 時 同 図 法 で 描 か 図 11 スヴェティ・パンテレイモン 修 道 院<br />

れている。ネレヅィの「 聖 体 拝 領 」はベーマの<br />

1164 年 ネレヅィ<br />

南 北 壁 面 に 延 長 して 描 かれるので、 先 頭 の 使 徒<br />

の 背 後 には 一 人 ずつしか 使 徒 が 描 かれていないが、 通 常 は 背 後 に 五 人 ずつ 使 徒 が 並 ぶ。 先 頭 の 使<br />

徒 はペテロとパウロ、あるいはペテロと 福 音 書 記 者 ヨハネの 組 合 せがある。「 聖 体 拝 領 」の 描 く<br />

ところが 最 後 の 晩 餐 であることは 言 うまでもない。しかし、「 晩 餐 」 図 が 福 音 書 の 出 来 事 を 史 伝<br />

的 に 描 き 出 す 図 像 であるのに 対 して「 聖 体 拝 領 」は 晩 餐 の 意 義 を 教 義 的 な 文 脈 で 説 明 する 典 礼 的<br />

な 性 格 を 持 つ。<br />

「 聖 体 拝 領 」は 中 規 模 以 上 の 聖 堂 、すなわちアプシスの 壁 面 に 余 裕 のある 聖 堂 に 多 く 見 られ、<br />

小 規 模 な 聖 堂 のアプシスでは 省 略 されるのが 常 である。「 聖 体 拝 領 」が 省 略 される 場 合 でも、コ<br />

ンク 下 部 ( 最 下 層 )は 本 章 冒 頭 の 数 値 が 示 す 通 り 図 像 が 配 される。 初 期 のコンク 下 部 は「 昇 天 =<br />

再 臨 」の 証 人 たる 使 徒 の 座 だったが、 中 期 になると 使 徒 に 替 わって 立 ち 並 ぶ 主 教 像 が 置 かれるよ<br />

うになる。 中 期 ビザンティンにおいてコンク 下 部 に 使 徒 を 配 する 聖 堂 は 20 例 に 過 ぎず、シチリ<br />

アの 数 例 を 除 けば、ほとんどが 古 い 伝 統 を 残 すカッパドキアの 作 例 である。<br />

使 徒 から 主 教 への 変 化 は、イコノクラスム 収 束 後 の 9 世 紀 後 半 から、ほぼ 全 国 的 に 見 られる。<br />

その 変 化 はカッパドキアで 具 に 観 察 できる。 初 期 のコンク 下 部 でも 使 徒 だけでなく 他 の 聖 人 と 組<br />

み 合 わせた 聖 人 群 像 が 描 かれていたことは 既 に 述 べた。 使 徒 から 主 教 への 変 化 はこうした 聖 人 群<br />

像 に 主 教 が 混 入 したことに 始 まる。カッパドキア、ムスタファパシャ( 旧 シナッソス)、アギイ・<br />

アポストリ 聖 堂 (9 世 紀 末 )では、 洗 礼 者 ヨハネ、ザカリア、 三 殉 教 者 にナヅィアンゾスのグレ<br />

ゴリオスとニコラオスが、ギュリュ・デレ 3 番 (9 世 紀 末 )では、 一 部 欠 損 があるものの、 天 使<br />

と 五 使 徒 にヨアンニス・クリソストモス、バシリオス、アガタンゲロス、ナヅィアンゾスのグレ<br />

ゴリオスが 加 えられた。<br />

この 時 期 はカッパドキアでもプログラムの 模 索 期 にあったようで、 主 教 のみで 構 成 される 群 像<br />

も 同 じ 9 世 紀 末 のハル・デレ 1 番 に 初 出 する 24 。ここではヨアンニス・クリソストモス、ナヅィ<br />

アンゾスのグレゴリオス、ニコラオス、キプリアノスの 四 主 教 を 採 る。この 主 教 群 像 の 上 に 聖 母<br />

24<br />

Jolivet-Levy, op. cit., pp. 65-66, pls. 50-51.


133<br />

図 12 スヴェティ・ギョルギ 聖 堂<br />

クルビノヴォ<br />

1191 年<br />

子 坐 像 が 配 されていることにも 触 れておこう。<br />

ハル・デレ 1 番 の 制 作 時 期 は 首 都 周 辺 で「アプ<br />

シス・コンク= 受 肉 = 聖 母 子 像 」の 定 式 化 が 試<br />

みられた 時 期 と 重 なる。 受 肉 の 象 徴 たる 聖 母 子<br />

坐 像 と 典 礼 の 実 践 者 たる 主 教 を 組 み 合 わせたハ<br />

ル・デレ 1 番 のプログラムは、この 時 期 の 首 都<br />

での 動 向 を 窺 わせるとともに、 後 に 展 開 してい<br />

く「アプシス= 受 肉 = 聖 餐 」を 表 すプログラム<br />

の 先 駆 と 見 なせよう。<br />

主 教 群 像 の 模 索 期 は 11 世 紀 まで 続 いた。アプ<br />

シスの 規 模 に 応 じて 描 かれる 主 教 の 数 は 異 なる。<br />

小 規 模 なアプシスでは、 典 礼 式 文 の 制 定 者 であるヨアンニス・クリソストモスとバシリオスの 二<br />

人 が 選 ばれ、 規 模 が 大 きくなればニコラオス、アタナシオス、ニッサとナヅィアンゾスの 両 グレ<br />

ゴリオス、グレゴリオス・タウマトゥルゴスらが 加 えられることが 多 い。<br />

11 世 紀 後 半 になると、それまで 厳 正 な 正 面 観 で 描 かれていた 主 教 群 像 に 変 化 が 現 れる。 主 教<br />

群 像 の 中 央 に、 実 際 の 祭 壇 のようにパテナやカリスを 載 せた 祭 壇 、あるいは 裁 きのために 再 臨 し<br />

エティマシア<br />

たキリストが 坐 す「 空 の 御 座 」が 加 えられるようになる。 主 教 は 祭 壇 や「エティマシア」に 向 か<br />

う 四 分 の 三 正 面 観 で 描 かれ、 典 礼 式 文 を 記 した 巻 物 を 手 にして 典 礼 を 捧 げるようになる。 典 礼<br />

を 捧 げる 主 教 はマケドニア、ストゥルミツァ 近 郊 、ヴェリュサ 修 道 院 (1085 ~ 1093 年 )に 初 出<br />

し 25 、 上 引 のネレヅィやクルビノヴォのスヴェティ・ギョルギ 聖 堂 (1191 年 、 図 12)が 示 すよう<br />

に、12 世 紀 にはほぼ 完 全 に 定 着 する。 以 上 の 過 程 を 経 て、「 聖 母 子 像 + 使 徒 の 聖 体 拝 領 + 典 礼 を<br />

捧 げる 主 教 群 像 」というアプシス 装 飾 の 定 型 が 完 成 し、アプシスは 神 がこの 世 に 現 れて 犠 牲 とし<br />

て 信 徒 に 供 されるという 聖 餐 の 意 義 を 視 覚 化 する 空 間 となった。<br />

初 期 ビザンティンでは、 聖 祭 品 はスケヴォフィラキオンと 呼 ばれる 場 所 で 準 備 され、 堂 内 の 中<br />

央 通 路 を 抜 けて 聖 所 へと 運 び 込 まれていたが 26 、 中 期 には 聖 祭 品 の 準 備 と 遷 移 は 全 て 堂 内 で 行 う<br />

方 式 に 変 わった。 典 礼 の 執 行 方 式 の 変 化 に 伴 い、アプシスの 南 北 には 副 アプシスを 備 えた 小 祭 室<br />

が 設 けられるようになる。 小 規 模 な 聖 堂 ではアプシスの 両 脇 にニッチを 設 けて 副 アプシスの 代 わ<br />

プ ロ テ シ ス<br />

りとする。 聖 祭 品 の 準 備 と 遷 移 が 行 われる 北 小 祭 室 は 聖 体 準 備 室 、 典 礼 で 用 いる 器 物 や 司 祭 の 祭<br />

ディアコニコン<br />

服 を 保 管 する 南 小 祭 室 は 聖 具 室 ( 輔 祭 室 )と 呼 ばれる。<br />

中 期 ビザンティンは 副 アプシスのプログラムでも 模 索 期 にあたる。プロテシスに 図 像 を 残 す 作<br />

25<br />

P. Miljković-Pepek, Veljusa: Le monastère de la Vierge de Pitié au village de Veljusa près de Strumica, Skopje,<br />

pp. 155-171 (in Macedonian).<br />

26<br />

178.<br />

R. Taft, The Great Entrance: A History of the Transfer of Gifts and Other Pre-anaphral Rites, Rome, 2004, p.


134<br />

例 は 全 部 で 52 例 あり、プログラム 構 成 は 一 つの 図 像 がプロテシスを 占 める 作 例 が 35 例 、2 層 構<br />

成 の 作 例 が 13 例 、3 層 構 成 が 4 例 である。プロテシスに 選 ばれる 図 像 も 定 まっていないが、 最<br />

も 多 いのが 聖 母 子 像 で 14 例 を 数 える。そのイコノグラフィは 聖 母 子 坐 像 4 例 、オディギトリア<br />

型 3 例 、キリオティッサ 型 2 例 、エレウサ 型 2 例 、ニコピア 型 ( 正 面 観 の 聖 母 子 半 身 像 )1 例 、<br />

プラティテラ 型 1 例 である。<br />

聖 母 子 像 以 外 の 図 像 を 列 挙 するなら 以 下 のようになる。「 顕 現 」の 主 題 が 6 例 (「デイシス」4 例 、<br />

「マイエスタス」1 例 、「インマヌエル」1 例 )、 輔 祭 5 例 (ステファノス 4 例 、エウプロス 1 例 )、<br />

洗 礼 者 ヨハネ 3 例 、 大 天 使 3 例 (ミカエル 2 例 、ガブリエル 1 例 )、 主 教 3 例 (テオドシオス 2 例 、<br />

スピリドン 1 例 )、 殉 教 者 2 例 (プロコピオス 1 例 、 四 十 人 殉 教 者 1 例 )、その 他 2 例 (ニキフォ<br />

ロス・フォカス 帝 1 例 、ヨアキム 1 例 )、「 神 殿 奉 献 」1 例 、 不 明 の 聖 人 3 例 、 同 定 不 能 の 作 例 が<br />

10 例 である。<br />

他 方 、ディアコニコンに 図 像 を 残 す 作 例 は 48 例 、プログラム 構 成 は 1 層 37 例 、2 層 9 例 、3<br />

層 2 例 となる。ディアコニコンへの 図 像 選 択 はプロテシスに 輪 をかけて 統 一 を 欠 く。 最 も 多 いの<br />

が 大 天 使 で 6 例 あり、ミカエル 5 例 、ガブリエル 1 例 である。 次 いで、 聖 母 子 像 5 例 (ブラケル<br />

ニティッサ 型 2 例 、 不 明 2 例 、 聖 母 子 坐 像 1 例 )、 洗 礼 者 ヨハネ 5 例 、 輔 祭 5 例 (ロマノス 2 例 、<br />

エウプロス 2 例 、ステファノス 1 例 )、「 顕 現 」の 主 題 4 例 (「デイシス」2 例 、「マイエスタス」1 例 、<br />

「パントクラトール」1 例 )、 預 言 者 4 例 (ザカリア、アブラハム、エゼキエル、 不 明 、 各 1 例 )、<br />

主 教 4 例 (ヨアンニス・クリソストモス、ニコラオス、トリフィリオス、 不 明 、 各 1 例 )、 戦 士<br />

聖 人 3 例 (ゲオルギオス 1 例 、テオドロス 1 例 )、 装 飾 性 の 強 い 十 字 架 2 例 、アンナ 1 例 、「 聖 母<br />

の 眠 り(キミシス)」1 例 、 不 明 の 聖 人 5 例 、 同 定 不 能 3 例 である。<br />

プロテシスに 聖 母 子 像 を 置 くプログラムは、トリエステのサン・ジュスト 聖 堂 (11 世 紀 )と<br />

ノヴゴロド、ネレディツァ 修 道 院 (1199 年 )の 2 例 を 除 き、 全 てカッパドキアの 作 例 である。<br />

筆 者 はかつてカッパドキアにおける「プロテシス= 聖 母 子 像 」という 図 像 選 択 について、プロテ<br />

シスの 機 能 とここで 執 り 行 われる 儀 式 との 関 連 を 指 摘 した 27 。プロテシスは 先 述 したように 聖 祭<br />

品 を 準 備 するだけでなく、 小 聖 入 と 大 聖 入 という 行 進 儀 礼 の 起 点 となる。 前 者 は 啓 蒙 者 の 聖 体<br />

礼 儀 において 福 音 書 を 持 った 司 祭 がプロテシスからアプシスへと U 字 型 に 移 動 する 行 進 儀 式 を<br />

指 す。この 儀 式 はキリストの 全 生 涯 ――この 世 に 現 れて 天 に 帰 るキリスト――を 象 徴 するとされ<br />

る 28 。 大 聖 入 では 信 徒 の 聖 体 礼 儀 の 際 に 聖 祭 品 を 持 った 司 祭 が 小 聖 入 と 同 じ 軌 跡 を 辿 って 移 動 す<br />

る。 大 聖 入 ではプロテシスを 出 る 司 祭 は 受 難 に 際 して 故 郷 を 後 にするキリスト、アプシスに 入 る<br />

27<br />

28<br />

上 註 5 参 照 。<br />

Ed. and trans. by S. Salaville A.A., Nicolas Cabasilas, Explication de la divine liturgie, Paris, 1967, pp. 80-<br />

81 (VI, 1).


135<br />

司 祭 はエルサレムに 入 城 するキリストに 準 えられる 29 。カッパドキアのプログラムはベツレヘム 30<br />

やキリストが 寝 かされた 飼 葉 桶 31 、キリストの 現 世 での 生 32 を 象 徴 する 場 と 解 する 神 学 的 伝 統 を 如<br />

実 に 反 映 すると 同 時 に、 司 祭 の 移 動 が 象 徴 する 受 肉 や 受 難 の 物 語 をドラマティックに 演 出 する。<br />

カッパドキアのプロテシスは 空 間 の 象 徴 性 と 儀 式 の 象 徴 性 、 図 像 の 含 意 の 三 者 が 有 機 的 に 結 びつ<br />

けられた 極 めて 精 妙 なプログラムと 評 することができよう。<br />

アプシスとは 異 なって 図 像 の 選 択 に 幅 があるため、あるいは 図 像 が 双 方 、あるいは 片 方 が 失 わ<br />

れているため、 中 期 ビザンティンの 副 アプシスにこれ 以 上 の 傾 向 を 見 いだすことは 難 しい。 図 像<br />

の 選 択 は 聖 堂 の 個 性 を 表 す。それゆえ、 中 期 ビザンティンの 副 アプシスについては、 個 別 研 究 を<br />

重 ねて 図 像 選 択 の 傾 向 を 見 いだす 他 に 道 はないだろう。とはいえ、 収 集 作 例 はプロテシスとディ<br />

アコニコンは 何 かしらの 関 係 性 を 持 った 対 で 理 解 されていたことを 示 している。 例 えば、カッパ<br />

ドキア、ニーデ 近 郊 、エスキ・ギュミュシュ 修 道 院 (1025 ~ 1028 年 )では、プロテシスにオディ<br />

ギトリア 型 、ディアコニコンに 洗 礼 者 ヨハネを 採 り、アプシスの「デイシス」と 相 まってメタレ<br />

ヴェルで「デイシス」を 構 成 する 33 。アプシスは 16 世 紀 のプラティテラ 型 だが、ネレヅィも 同 様<br />

のプログラムを 採 る。あるいは、キプロス、ラグデラ、パナギア・トゥ・アラカ 聖 堂 (1192 年 )<br />

やクルビノヴォのようにプロテシスに 輔 祭 ステファノスを 置 く 場 合 は、ディアコニコンには 同 じ<br />

輔 祭 のロマノス・メロドスやエウプロスを 配 する。ヨアキムとアンナを 対 にしたパレルモのラ・<br />

マルトラーナ 聖 堂 (1143 年 )や、「 神 殿 奉 献 」と「キミシス」を 対 にしたウフララのシュンビュ<br />

リュ・キリセ(11 世 紀 )も 興 味 深 いプログラムである。<br />

後 期 ビザンティン(13 ~ 15 世 紀 )<br />

収 集 資 料 において、 後 期 ビザンティンのプログラムを 有 する 聖 堂 は 169 例 ある。 後 期 も 小 規 模<br />

な 単 廊 式 が 90 例 と 最 も 多 く、 次 いで 内 接 十 字 式 33 例 、 十 字 形 16 例 、 三 廊 式 バシリカ 12 例 、 三<br />

葉 形 12 例 、ミストラにのみ 見 られる 三 廊 式 バシリカの 上 に 内 接 十 字 式 を 載 せた 折 衷 式 3 例 、ドー<br />

ムド・バシリカ 2 例 、 二 連 単 廊 式 1 例 となる。 後 期 ビザンティンでは、セルビアやコソヴォでは<br />

王 侯 貴 族 の 寄 進 にかかる 大 規 模 、かつモニュメンタルな 聖 堂 が 建 設 される 一 方 で、クレタ 島 やキ<br />

29<br />

Ibid., pp. 162-165 (XXV 3). 邦 訳 はニコラオス・カバシラス、 市 瀬 英 昭 訳 『 聖 体 礼 儀 註 解 』(『 中 世 思 想 原 典 集<br />

成 』 第 3 巻 ) 平 凡 社 、1994 年 、908 頁 。<br />

30<br />

31<br />

Nicolai Andidae, Protheoria, PG 140, col. 429C.<br />

P. Joannou, “Aus den inedierten Werken des Psellos: das Lehrgedicht zum Messopfer und der Traktat<br />

gegen die Vorbestimmung der Todesstunde,” BZ 51 (1958), p. 5.<br />

32<br />

33<br />

Salaville, op. cit., pp. 60 (I, 6), 62 (I, 8), 80 (VI, 1).<br />

益 田 朋 幸 「「デイシス」 図 像 の 起 源 と 発 展 (I)― 中 期 ビザンティン 聖 堂 装 飾 プログラム 論 ―」『 女 子 美 術 大 学<br />

紀 要 』 第 26 号 (1996 年 )14-16 頁 ;「「デイシス」 図 像 の 起 源 と 発 展 (II)― 中 期 ビザンティン 聖 堂 装 飾 プログラム<br />

論 ―」『 女 子 美 術 大 学 紀 要 』 第 27 号 (1997 年 )13-14 頁 。


136<br />

プロスでは 小 規 模 な 聖 堂 が 無 数 に 建 てられている。カッパドキ<br />

アの 修 道 文 化 は 1071 年 のマンツィケルトの 敗 戦 により 衰 退 し、<br />

後 期 ビザンティンに 目 立 った 作 例 はない。 後 期 ビザンティンの<br />

聖 堂 建 築 では、プロテシスとディアコニコンが 定 着 したことに<br />

加 え、テンプロンが 木 造 の 巨 大 なイコノスタシスへと 移 行 し、<br />

聖 所 内 で 執 行 される 儀 式 は 完 全 に 信 徒 の 視 線 から 隠 されること<br />

になる。<br />

アプシスのプログラム 構 成 は 1 層 構 成 が 12 例 、2 層 構 成 が 75<br />

例 、3 層 構 成 が 44 例 、4 層 構 成 が 18 例 、5 層 以 上 のプログラム<br />

構 成 をもつ 作 例 が 6 例 、 剝 落 や 欠 損 により 不 明 のものが 15 例 と<br />

なる。プログラム 構 成 がアプシスの 規 模 によるというのは 既 に<br />

述 べた 通 りである。それゆえ、1 層 から 2 層 の 構 成 しかもたな<br />

い 作 例 は、ほとんどが 小 規 模 な 単 廊 式 の 聖 堂 と 考 えて 差 し 支 え<br />

図 13 ボゴロディツァ・ペリブ<br />

ない。 作 例 数 が 示 すように「 聖 母 子 像 + 聖 体 拝 領 + 主 教 群 像 」<br />

の 3 層 構 成 のプログラムが 定 型 化 し、ギリシア、カストリア、<br />

アギオス・アタナシオス・トゥ・ムザキ 聖 堂 (1384/85 年 )や<br />

セルビア、ストゥデニツァ 修 道 院 、 王 の 聖 堂 (1314 年 )のように、<br />

小 規 模 でも「 聖 体 拝 領 」を 省 略 しない 聖 堂 も 少 なくない。<br />

後 期 ビザンティンになるとアプシスのプログラムは 著 しく 多<br />

層 化 ・ 複 雑 化 し、この 傾 向 は 時 代 が 下 るほど、またアプシスの<br />

規 模 が 大 きくなるほど 顕 著 になる。この 時 期 の 聖 堂 では 中 規 模<br />

と 言 ってよいオフリド、ボゴロディツァ・ペリブレプタ 聖 堂 の<br />

アプシス(1294/95 年 、 図 13) 34 を 見 よう。 同 聖 堂 はミハイルと<br />

エウティキオスという 二 人 組 の 画 家 の 手 に 拠 ることで 知 られる。<br />

アプシスのプログラムは 4 層 構 成 である。 最 上 段 のコンクには<br />

ブラケルニティッサ 型 立 像 、2 層 目 には「 聖 体 拝 領 」が 配 される。<br />

アプシス 最 下 層 は 典 礼 を 捧 げる 主 教 群 像 で、 右 からナヅィアン<br />

レプタ 聖 堂<br />

ド<br />

1294/95 年 オフリ<br />

ゾスのグレゴリオス、バシリオス、ヨアンニス・クリソストモス、 図 14 スヴェティ・ギョルギ 聖<br />

アタナシオスである。 祭 壇 や「エティマシア」は 描 かれていない。<br />

中 期 の 作 例 と 大 きく 異 なるのは「 聖 体 拝 領 」と「 典 礼 を 捧 げる<br />

堂 のアプシス 1316 ~ 1318 年<br />

スタロ・ナゴリチャネ<br />

主 教 」の 間 、3 層 目 に 主 教 像 のフリーズが 挿 入 されていること<br />

である。 主 教 は 正 面 観 の 半 身 像 で 描 かれ、 銘 文 により 左 からゲルマノス、タラシオス、メトディ<br />

オス、「 神 の 兄 弟 」ヤコブ、 教 皇 シルウェステル、 教 皇 クレメンス、ミトロファニスと 知 れる。<br />

34<br />

P. Miljković-Pepek, L'œuvre des peintres Michel et Eutych, Skopje, 1967 (in Macedonian), pp. 43-51.


137<br />

聖 堂 の 規 模 が 大 きくなるとプログラムはより 多 層 化 ・ 複 雑 化<br />

する。 同 じミハイルとエウティキオスによるスタロ・ナゴリ<br />

チャネのスヴェティ・ギョルギ 聖 堂 のアプシス(1316 ~ 1318<br />

年 、 図 14) 35 は 大 規 模 なモニュメンタルな 作 例 であり、プログラ<br />

ムは 5 層 に 及 ぶ。 基 本 的 な 構 成 は「 聖 母 子 坐 像 + 聖 体 拝 領 + 典<br />

礼 を 捧 げる 主 教 」のプログラムだが、 基 本 要 素 の 間 に 主 教 のフ<br />

リーズが 挿 入 される。2 層 目 の 主 教 フリーズは 11 名 、4 層 目 は<br />

14 名 にまで 増 えている。 最 下 層 の 典 礼 を 捧 げる 主 教 も 8 名 に 増<br />

え、 中 央 の 採 光 部 左 にニッサのグレゴリオス、ニコラオス、ナ<br />

ヅィアンゾスのグレゴリウス、バシリオスが、 右 にヨアンニス・<br />

クリソストモス、アタナシオス、アレクサンドリアのキリロス、<br />

ヨアンニス・エレイモンが 立 ち 並 ぶ。 主 教 半 身 像 はセルビア、<br />

図 15 デチャニ 修 道 院<br />

1350 年 コソヴォ<br />

図 16 マルコフ・マナスティ<br />

ル 1376 年 スシツァ 郊 外<br />

ラヴァニツァ 修 道 院 (1385 年 頃 )のようにメダイヨンの 形 式 を<br />

採 ることもあれば、 同 じくセルビア、クラリェヴォ 近 郊 のジチャ<br />

修 道 院 (1309 ~ 1316 年 )のように 額 縁 を 付 してイコンに 見 立<br />

てたものも 散 見 される。<br />

「 聖 母 子 像 + 聖 体 拝 領 + 典 礼 を 捧 げる 主 教 」のプログラムに 挿<br />

入 されたのは 主 教 像 だけではない。コソヴォ、デチャニ 修 道 院<br />

のアプシス(1350 年 、 図 15) 36 は 5 層 構 成 を 採 る。デチャニのプ<br />

ログラムはコンクに「 聖 体 拝 領 」を、 第 2 層 に 二 天 使 を 伴 うブ<br />

ラケルニティッサ 型 を 描 いて、 通 常 のプログラムのヒエラルキー<br />

を 入 れ 替 えている。 第 3 層 と 第 4 層 を 貫 く 形 で 3 つの 採 光 窓 を<br />

開 け、そのソフィットにはそれぞれ 四 人 ずつ 主 教 半 身 像 を 配 す<br />

る。 第 4 層 は 祭 壇 を 中 心 に 6 人 の「 典 礼 を 捧 げる 主 教 」が 配 さ<br />

れている。 祭 壇 の 上 にはパテナにのった 幼 子 キリストが 描 かれ<br />

アムノス<br />

ているが、これは 図 像 学 的 に「 聖 羔 」、あるいは「メリスモス」<br />

と 呼 ばれる 後 期 に 特 有 の 図 像 である( 後 述 )。 問 題 の 第 3 層 には<br />

キリストの 公 生 涯 から 抜 粋 された「マタイの 召 命 」、「 癩 者 の 治<br />

癒 」、「 狂 者 の 治 癒 」、「 病 人 達 の 治 癒 」の 4 場 面 が 挿 入 されている。<br />

マケドニア、スシツァ 郊 外 のマルコフ・マナスティルのアプ<br />

シス(1376 年 、 図 16) 37 も 複 雑 な 構 成 を 採 る。こちらはアプシ<br />

35<br />

36<br />

37<br />

Ibid., pp. 56-62.<br />

B. Todić and M. Čanak-Medić, Manastir Dečani, Beograd, 2005 (in Serbian).<br />

D. Kyopkhakov, Makedonski Manastiri, Skopje, 2009, pp. 66-72 (in Macedonian).


138<br />

スを 5 層 に 分 割 し、 頂 部 に 両 腕 を 拡 げて 祝 福 する「キリスト・インマヌエル」を、 第 2 層 に 二 天<br />

使 を 伴 うブラケルニティッサ 型 を 配 する。 第 3 層 に「 聖 体 拝 領 」を 置 くところまでは 定 型 通 りの<br />

プログラムだが、マルコフ・マナスティルの 特 異 な 点 は 第 3 層 以 下 のプログラムにある。 第 4 層<br />

は 中 央 の 採 光 部 を 境 に 二 分 される。 左 には 聖 職 者 が 台 に 乗 せられたイコンに 典 礼 を 捧 げる 場 面 が、<br />

右 には「 受 胎 告 知 」が 描 かれている。これらはマリアに 捧 げられたアカティストス 讃 歌 の 一 部 で<br />

ある。アカティストスは 全 24 連 の 讃 美 歌 で、 四 旬 節 の 金 曜 日 の 晩 に 歌 われる。 後 期 ビザンティ<br />

ンから 聖 堂 装 飾 に 導 入 されたが、 先 に 見 た「 受 胎 告 知 」はアカティストス 第 1 連 、 典 礼 場 面 は 第<br />

24 連 にあたる。 第 4 層 は 右 の「 受 胎 告 知 」を 起 点 に 聖 堂 を 一 周 して 左 の 典 礼 場 面 を 終 点 とする、<br />

長 大 な「アカティストス」サイクルの 一 部 なのである。 典 礼 を 捧 げる 主 教 の 定 位 置 である 最 下 部<br />

には、キリストが 司 式 する「 天 上 の 典 礼 」が 配 されている。 祭 服 を 纏 ったキリストがキボリウム<br />

付 きの 祭 壇 に 立 ち、 両 腕 を 拡 げて 祝 福 する。キリストの 左 右 には 輔 祭 姿 の 天 使 達 が 控 え、 画 面 左<br />

端 に 典 礼 の 制 定 者 ヨアンニス・クリソストモスとバシリオスが 並 ぶ。 以 上 、 二 聖 堂 のアプシスを<br />

見 たが、 何 ゆえこうした 特 殊 なプログラムが 採 られたのかという 問 題 は 未 だ 筆 者 には 回 答 しえな<br />

いものであり、 今 後 の 個 別 研 究 の 対 象 となろう。<br />

後 期 になるとアプシスの 図 像 選 択 にも 興 味 深 い 変 化 が 見 られる。 中 期 に 確 立 した「アプシス=<br />

受 肉 を 表 象 する 場 」という 伝 統 を 受 け 継 ぎ、 聖 母 子 像 をコンクに 据 えた 聖 堂 は 109 例 に 及 ぶ。イ<br />

コノグラフィの 内 訳 はプラティテラ 型 50 例 、ブラケルニティッサ 型 30 例 、 聖 母 子 坐 像 23 例 、<br />

キリオティッサ 型 3 例 、ニコピア 型 1 例 、 不 明 2 例 となる。 中 期 まで 見 られたオディギトリア 型<br />

は 完 全 に 姿 を 消 す。 他 方 、「 顕 現 」の 主 題 は 全 部 で 23 例 と 激 減 する。 内 訳 はカッパドキアで 細 々<br />

と 制 作 が 続 けられた「デイシス」が 10 例 、クレタ 島 でまとまって 観 察 される「パントクラトー<br />

ル」が 7 例 となる。「インマヌエル」をコンク 頂 部 にいただく 作 例 が 3 例 あるが、 上 引 のマルコフ・<br />

マナスティルとコソボのグラチャニツァ 修 道 院 (1321 年 )のいずれも 真 下 に 二 天 使 を 伴 うブラ<br />

ケルニティッサ 型 を 置 くので、 聖 母 子 像 の 変 種 と 見 なしてもよいだろう。 他 に「 昇 天 」が 2 例 、<br />

「 三 位 一 体 」を 採 るキプロス、エンバのパナギア・クリソエレウサ 聖 堂 は 厳 密 に 言 えば 15 世 紀 末 、<br />

アナスタシス アムノス<br />

ポスト・ビザンティン 期 の 作 例 になる。その 他 、「 悲 しみの 人 」が 2 例 、「 冥 府 降 下 」、「 聖 羔 」、「 聖<br />

体 拝 領 」、 洗 礼 者 ヨハネが 各 1 例 ずつ 挙 げられるが、「 聖 体 拝 領 」をコンクに 据 えたデチャニ 修 道<br />

院 以 外 は 全 て 聖 堂 に 付 設 された 小 礼 拝 堂 である。<br />

中 期 のアプシスに 好 まれた 図 像 は 聖 母 子 坐 像 だった。しかし、 後 期 になるとブラケルニティッ<br />

サ 型 30 例 、プラティテラ 型 50 例 と、オランスのマリア 像 をアプシスに 置 くプログラムへと 移 行<br />

する 38 。とりわけ、プラティテラ 型 の 増 加 は 目 覚 ましい。プラティテラ 型 とは 両 腕 を 拡 げてオラ<br />

ンスの 姿 勢 を 取 るブラケルニティッサ 型 の 亜 種 で、 胸 に 超 自 然 的 に 浮 くインマヌエルのメダイヨ<br />

ンを 伴 う。プラティテラ 型 はナクソス、ハルキのアギオス・ディミトリオス・ディアソリティス<br />

38<br />

益 田 朋 幸 、 辻 絵 理 子 「アプシス 装 飾 としての「 オランスの 聖 母 」― 中 期 ビザンティン 聖 堂 装 飾 プログラム 論<br />

―」『 早 稲 田 大 学 大 学 院 文 学 研 究 科 紀 要 』 第 52 輯 第 3 分 冊 (2007 年 )29-42 頁 。


139<br />

図 17 パナギア・トゥ・ムトゥラ 聖 堂 1280 年<br />

ムトゥラス<br />

聖 堂 (11 世 紀 )でアプシスに 初 出 し、ペラコリ<br />

オのアギイ・アポストリ 聖 堂 (1160 ~ 1180 年 )<br />

やトリコモのパナギア・テオトコス 聖 堂 (12 世<br />

紀 )、セルビア、ノヴィ・パザルのペトロヴァ・<br />

ツルクヴァ(12 世 紀 ) 等 、12 世 紀 に 全 国 的 に 普<br />

及 していく。<br />

プラティテラ 型 はストゥデニツァ 修 道 院 の<br />

カトリコン<br />

主 聖 堂 、ボゴロディツァ 聖 堂 (1208/09 年 )やギ<br />

リシア、アルタ 近 郊 、アギオス・ディミトリオス・<br />

カツリス 聖 堂 (13 世 紀 ) 等 、ごく 少 数 を 除 けば、<br />

ほぼ 例 外 なく 小 規 模 な 単 廊 式 の 聖 堂 を 飾 る。ブラ<br />

ケルニティッサ 型 にも 同 様 の 傾 向 が 認 められるが、 先 のボゴロディツァ・ペリブレプタをはじめ、<br />

クチェヴィシュテ、スヴェティ・スパス 聖 堂 (1330 年 頃 )、マナスティルのスヴェティ・ニコラ<br />

聖 堂 (1271 年 )、プリズレンのボゴロディツァ・リェビシュカ 聖 堂 (1307 年 ) 等 、 中 規 模 以 上 の<br />

聖 堂 が 散 見 される。 他 方 、 聖 母 子 坐 像 は 先 に 見 たスタロ・ナゴリチャネやミストラのパナギア・<br />

ペリブレプトス 聖 堂 (1350 ~ 1375 年 )、セルビアのラヴァニツァ 修 道 院 (1385 年 頃 ) 等 、 比 較 的 、<br />

大 規 模 な 聖 堂 のアプシスに 好 まれたようである。<br />

聖 母 子 像 はイコノグラフィが 異 なれば、 含 意 するところも 自 ずと 異 なる。 聖 母 子 坐 像 が 受 肉 を<br />

強 く 想 起 させ、ブラケルニティッサ 型 が 寄 進 者 への 執 り 成 しと 恩 寵 の 徴 と 解 されていたことは 前<br />

章 で 述 べた。 描 く 壁 面 に 余 裕 がある 場 合 は 隣 接 する 様 々な 図 像 と 呼 応 して、メタレヴェルで 様 々<br />

なコノテーションを 生 み 出 しうる 39 。 小 規 模 な 聖 堂 ではそうした 解 決 法 を 採 りえないため、プラ<br />

ティテラ 型 のようにメダイヨンが 受 肉 も 想 起 させれば、オランスの 姿 勢 が 信 徒 への 執 り 成 しも 保<br />

証 するという 複 数 のコノテーションをもつ 図 像 が 選 ばれたとの 推 測 も 可 能 である。この 問 題 につ<br />

いては、キプロス、ムトゥラス、パナギア・トゥ・ムトゥラ 聖 堂 (1280 年 、 図 17) 40 を 見 よう。<br />

プラティテラ 型 をアプシスに 置 く 聖 堂 の 例 に 漏 れず、 同 聖 堂 も 小 規 模 な 単 廊 式 の 聖 堂 である。 小<br />

さなアプシスは 上 下 二 段 構 成 であり、コンクにはプラティテラ 型 半 身 像 と 二 天 使 が、コンク 下 部<br />

には 典 礼 を 捧 げる 6 人 の 主 教 が 配 されている。 同 聖 堂 のプログラムで 興 味 深 いのはプラティテラ<br />

型 に 伴 う 天 使 が 振 り 香 炉 を 手 にしていることである。この 振 り 香 炉 は「キミシス」においてペテ<br />

ロが 手 にすることからも 強 く 葬 送 と 結 びつく。ここでは 葬 送 と 結 びつけられるのは 第 一 に 後 に 人<br />

類 のため 犠 牲 となるインマヌエルであり、 受 難 を 暗 示 するモティーフとなる。さらには、マリア<br />

テ オ ー シ ス<br />

と 振 り 香 炉 の 組 合 せから「キミシス= 人 間 神 化 」の 含 意 を 読 むことも 不 可 能 ではない。 後 期 ビザ<br />

39<br />

益 田 朋 幸 「キリスト・ パントクラトールのコンテクスト― 中 期 ビザンティン 聖 堂 装 飾 プログラム 論 ―」『 早<br />

稲 田 大 学 大 学 院 文 学 研 究 科 紀 要 』 第 48 輯 第 3 分 冊 (2003 年 )39-54 頁 。<br />

40<br />

Stylianou, op. cit., pp. 323-330.


140<br />

ンティンのマリア 図 像 の 選 択 について、ここで<br />

は 上 記 の 問 題 を 指 摘 するにとどめ、 別 稿 をたて<br />

て 検 討 することにする。<br />

後 期 のアプシスにおけるもう 一 つの 変 化 は<br />

アムノス<br />

メ リ ス モ ス<br />

「 聖 羔 」、または「 聖 体 の 分 割 」と 呼 ばれる 図 像<br />

が 導 入 されたことである。 中 期 ビザンティンに<br />

おいてコンク 下 部 の 主 教 群 像 が 厳 正 な 正 面 観 か<br />

ら 典 礼 を 捧 げる 四 分 の 三 正 面 観 に 変 化 したこと<br />

に 伴 い、その 中 心 モティーフとして「エティマ<br />

シア」や 祭 壇 が 加 えられたことは 既 に 述 べた。<br />

この 祭 壇 の 上 に 犠 牲 たる 幼 子 キリストが 加 えら<br />

れたのである。 現 存 最 古 の「アムノス」は 中 期<br />

のクルビノヴォ( 図 18) 41 に 遡 る。ここでは 祭 壇<br />

布 の 上 に 直 接 幼 子 キリストが 寝 かされ、 右 手 で<br />

祝 福 する。 幼 子 の 腹 部 は 十 字 架 の 刺 繍 が 施 され<br />

たヴェールで 覆 われる。 幼 子 の 後 方 、 採 光 部 の<br />

プロスフォラ<br />

真 下 に 聖 餅 を 載 せたパテナを、 幼 子 の 枕 元 にワ<br />

インを 入 れるカリスが 配 されている。13 世 紀 以<br />

降 、「アムノス」は「 典 礼 を 捧 げる 主 教 」の 中<br />

心 モティーフとして 急 速 に 普 及 し、 収 集 作 例 で<br />

も 58 例 を 数 える。<br />

後 期 に 入 ると、「アムノス」は 聖 餅 の 代 わりにパテナの 上 に 描 かれるようになる。 先 に 挙 げた<br />

マナスティルのスヴェティ・ニコラ 聖 堂 ( 図 19) 42 では、 典 礼 を 捧 げる 主 教 の 中 央 、 採 光 部 の 真<br />

下 に 祭 壇 が 描 かれる。 祭 壇 の 後 ろには 輔 祭 姿 の 二 天 使 が 団 扇 を 手 に 控 える。 祭 壇 の 上 には 壺 とパ<br />

テナが 置 かれ、 後 者 の 上 に 腹 部 を 覆 われた 幼 子 キリストが 寝 かされている。 主 教 の 数 、 天 使 の 有<br />

無 に 異 同 はあるものの、 大 凡 これが「アムノス」の 定 型 となる。<br />

図 18 スヴェティ・ギョルギ 聖 堂 1191 年<br />

クルビノヴォ<br />

図 19 スヴェティ・ニコラ 聖 堂<br />

マナスティル<br />

1271 年<br />

マケドニア、マトゥカ、スヴェティ・アンドレヤ 聖 堂 (1388/89 年 )のように、 祭 壇 付 近 に 聖<br />

霊 を 象 徴 する 光 輪 を 帯 びた 鳩 が 付 加 された「アムノス」も 散 見 される。 周 知 の 通 り、ビザンティ<br />

ン 美 術 最 大 の 特 徴 は 高 度 に 規 格 化 されたイコノグラフィにある。ビザンティン 人 は 変 化 を 恐 れる<br />

かのように 連 綿 と 同 じ 図 像 を 描 き 続 けた。こうしたビザンティン 美 術 の 特 質 に 鑑 みれば、 図 像 の<br />

微 細 な 変 化 や 新 たな 図 像 の 創 出 は 描 かれる 対 象 に 対 する 理 解 が 変 化 したことを 反 映 する。14 世<br />

41<br />

42<br />

C. Grazdanov, Kurbinovo i Druga Studii za Freskožibopisot bo Prespa, Skopje, 2006.<br />

A. Serafimova, “St. Nicholas in Manastir,” Macedonian Cultural Monuments: Christian Monuments, ed. by<br />

J. Tričikovska, Skopje, 2008, pp. 140-143.


141<br />

紀 のニコラオス・カバシラスは 大 聖 入 により 祭 壇 に 遷 移 された 聖 祭 品 は 未 だ 聖 別 されておらず、<br />

聖 霊 の 降 臨 により 初 めてキリストの 血 と 肉 になると 聖 霊 の 業 を 強 調 するが、マトカの「アムノス」<br />

ヘ シ カ ズ ム<br />

とともに、この 時 期 に 聖 霊 論 ―― 静 寂 主 義 ――が 盛 んに 議 論 されたことを 改 めて 想 起 させる。<br />

後 期 ビザンティンになると 副 祭 室 のプログラムにも 変 化 が 現 れる。プロテシスに 図 像 を 残 す 作<br />

例 は 108 例 あり、プログラムの 構 成 は 1 層 が 72 例 、2 層 が 24 例 、3 層 が 10 例 、4 層 が 2 例 とな<br />

る。プロテシスの 図 像 として 最 も 多 いのは 輔 祭 聖 人 で、42 例 を 数 える。 内 訳 はステファノス 34 例 、<br />

プロコロスとエウプロスが 各 1 例 、 不 明 の 輔 祭 が 6 例 となる。 輔 祭 に 次 いで 多 いのがキリストを<br />

主 題 とする 図 像 群 、31 例 である。「 顕 現 」の 主 題 は 影 を 潜 め、 代 わって「 悲 しみの 人 」21 例 、「パ<br />

ントクラトール」3 例 、「 祭 司 キリスト」2 例 、「 日 の 老 いたる 者 」2 例 、「アムノス」2 例 、「イン<br />

マヌエル」1 例 となる。<br />

中 期 のカッパドキアで 見 られた 聖 母 子 像 も 後 期 には 7 例 に 減 少 し、 内 訳 は 聖 母 子 坐 像 2 例 、プ<br />

ラティテラ 型 2 例 、ブラケルニティッサ 型 1 例 、アギオソリティッサ 型 ( 四 分 の 三 正 面 観 で 嘆 願<br />

の 姿 勢 を 取 るタイプ)1 例 、ニコピア 型 1 例 である。その 他 は 主 教 4 例 (スピリドンとニコラオ<br />

スが 1 例 ずつ、 不 明 2 例 )、 洗 礼 者 ヨハネ 3 例 、 戦 士 聖 人 2 例 (ゲオルギオスとディミトリオス<br />

が 各 1 例 )、 装 飾 的 な 十 字 架 3 例 、ミカエル 2 例 、 不 明 の 聖 人 6 例 となる。ナラティヴな 図 像 が<br />

配 された 作 例 も 5 例 (マリア 伝 3 例 、マギの 礼 拝 1 例 、アカティストス 1 例 ) 見 られるが、これ<br />

らはマルコフ・マナスティルで 見 たように、 聖 所 外 の 図 像 サイクルが 聖 所 内 にまで 割 り 込 んでき<br />

たケースである。<br />

他 方 、ディアコニコンに 図 像 を 残 す 作 例 は 88 例 である。プログラムの 構 成 は、1 層 54 例 、2<br />

層 25 例 、3 層 5 例 、4 層 3 例 、5 層 1 例 となる。ディアコニコンでも 輔 祭 聖 人 を 置 く 作 例 が 30<br />

例 と 最 も 多 く、ロマノス・メロドスが 15 例 、エウプロス 2 例 、ラウレンティオス 2 例 、プロコ<br />

ロス 1 例 、 同 定 不 能 の 輔 祭 が 10 例 である。 次 いで 主 教 像 が 13 例 (ニッサのグレゴリオス 2 例 、<br />

アタナシオス、アレクサンドロスのキリロス、シルウェステル、スピリドンが 各 1 例 、 不 明 7 例 )、<br />

キリストが 12 例 (「パントクラトール」4 例 、「アムノス」3 例 、「 悲 しみの 人 」「 日 の 老 いたる 者 」、<br />

「アナペソン」、「 天 使 キリスト」、「 神 殿 のキリスト」が 1 例 ずつ)、 聖 母 子 像 9 例 (ブラケルニティッ<br />

サ 型 5 例 、プラティテラ 型 3 例 、ニコピア 型 1 例 )、 洗 礼 者 ヨハネ 5 例 と 続 く。その 他 の 主 題 と<br />

しては、 福 音 書 記 者 2 例 (ヨハネとマタイが 各 1 例 )、ゾシマスとエジプトのマリアが 1 例 、 天<br />

使 の 軍 勢 1 例 、オヌフリオス 1 例 、 同 定 不 能 の 聖 人 が 3 例 である。<br />

中 期 ビザンティンは 副 アプシスのプログラムの 模 索 期 にあたり、 聖 母 子 像 をプロテシスに 置 く<br />

カッパドキア 以 外 に 一 定 の 傾 向 は 見 いだせなかった。しかし、 後 期 の 副 アプシスには 二 つの 潮 流<br />

が 認 められる。 第 一 に「 副 アプシス= 輔 祭 の 場 」との 認 知 が 定 着 してきたことが 挙 げられよう。<br />

輔 祭 が 選 択 されるのは 概 して 小 規 模 な 聖 堂 、あるいは 中 規 模 であってもニッチ 程 度 の 副 アプシス<br />

しかもたない 聖 堂 に 多 く 見 られる。 中 でもプロテシスにステファノスを 選 ぶ 例 が 多 く、プロテシ<br />

スにステファノスが 来 る 場 合 、ディアコニコンには 他 の 輔 祭 聖 人 、 特 にロマノス・メロドスと 組<br />

み 合 わされる。


142<br />

プロテシスにステファノスを 採 るプログラムには、カッパド<br />

キアのプログラムのような 演 劇 性 を 見 いだすことは 難 しい。 代<br />

わりに 重 視 されているのは 空 間 の 位 階 性 である。これはアプシ<br />

スの 下 部 が 主 教 の 座 となることと 並 行 して 生 じた 現 象 だと 思 わ<br />

れる。 例 えば、カッパドキア、アイヴァルのアイヴァル・キリ<br />

セのアプシス(11 世 紀 )は 3 層 構 成 で、 最 上 段 に「デイシス」、<br />

中 間 帯 に「 使 徒 の 聖 体 拝 領 」が 描 かれる。 最 下 層 は 主 教 の 群 像<br />

を 描 くが、その 南 北 端 にステファノスとロマノス・メロドスの<br />

輔 祭 を 並 べている。 主 教 群 像 が 典 礼 を 捧 げる 主 教 へと 移 り 変 わ<br />

ると、アプシス 下 部 は 実 際 に 司 式 する 司 祭 と 描 かれた 主 教 が 聖<br />

変 化 の 秘 蹟 を 執 行 する 空 間 となった。そこで 輔 祭 は 典 礼 の 執 行<br />

補 助 という 実 際 の 役 割 ゆえに 副 次 的 な 空 間 に 移 動 されたと 推 察<br />

図 20 「 悲 しみの 人 」 12 世 紀 末<br />

される。<br />

カストリア ビザンティン 博 物<br />

後 期 の 副 アプシスに 見 られる 第 二 の 潮 流 は、 直 立 した 死 せる 館<br />

キリストを 描 いた「 悲 しみの 人 」 43 を 配 するプログラムが 成 立<br />

したことである。 副 アプシスに 輔 祭 を 置 くプログラムは 中 期 に<br />

も 散 見 されるのに 対 し、 収 集 資 料 を 見 る 限 り「 悲 しみの 人 」を 置 くプログラムはギリシア、アル<br />

タ、パナギア・パリゴリティッサ 聖 堂 (1290 年 )に 初 出 し、14 世 紀 になって 広 く 普 及 した。「 栄<br />

光 の 主 」や「イマーゴ・ピエターティス」とも 呼 ばれる「 悲 しみの 人 」が 遅 れて 聖 堂 装 飾 に 導 入<br />

されたのは、12 世 紀 末 になってカストリア、ビザンティン 博 物 館 の 両 面 イコン( 図 20)に 初 出<br />

した 新 しい 図 像 だからだろう。<br />

プロテシスの「 悲 しみの 人 」には、アルタのアギオス・バシリオス 聖 堂 (14 世 紀 )やオフリ<br />

ドのスヴェティ・ディミトリェ 聖 堂 (14 世 紀 )のように、 悲 嘆 に 暮 れるマリアと 福 音 書 記 者 を<br />

加 えて「 磔 刑 」や「 十 字 架 降 架 」、「 墓 の 上 での 悲 嘆 (エピタフィオス・トレノス)」といった 受<br />

難 伝 図 像 との 関 係 を 強 調 したものも 散 見 される。この 世 に 現 れて 犠 牲 となった「 悲 しみの 人 」と<br />

これから 犠 牲 として 供 される 聖 祭 品 はプロテシスで 対 置 される。 聖 母 子 像 を 配 した 中 期 カッパド<br />

キアのプログラムが 行 進 儀 礼 における 過 去 を 志 向 するならば、「 悲 しみの 人 」を 配 する 後 期 のプ<br />

ログラムは 未 来 を 投 影 すると 言 えよう。ここに「 輔 祭 =プロテシス」のプログラムでは 再 現 しえ<br />

ない「 空 間 = 儀 式 = 図 像 」の 一 致 が 回 復 されるのである。<br />

43<br />

H. Belting, “An Image and Its Function in the Liturgy: The Man of Sorrows in Byzantium,” DOP 34-35<br />

(1980-1981), pp. 1-16.


143<br />

おわりに<br />

以 上 、ビザンティン 聖 堂 における 聖 所 のプログラムの 変 遷 を 概 観 した。 稿 を 終 えるにあたり、<br />

これまでの 議 論 を 振 り 返 り、 後 期 ビザンティン 聖 堂 の 儀 礼 化 に 関 する 問 題 点 を 明 らかにしたい。<br />

「 昇 天 = 再 臨 」の 主 題 が 置 かれたアプシスは、イコノクラスム 収 束 後 の 中 期 ビザンティンにお<br />

いて「 受 肉 」を 表 象 する 場 となった。 神 の 受 肉 は 旧 約 世 界 に 終 焉 をもたらし、もはや 旧 約 的 な 神<br />

のヴィジョンによらずとも 画 像 を 通 じて 人 は 神 を 見 ることができる。 古 い 伝 統 に 則 って「 顕 現 」<br />

の 主 題 を 留 めたカッパドキア 以 外 の 地 域 では、アプシスのコンクは 直 接 的 に 受 肉 を 想 起 させる 聖<br />

母 子 像 の 座 となる。アプシスが 受 肉 を 表 象 する 場 になると、コンク 下 部 は「 昇 天 = 再 臨 」の 証 人<br />

たる 使 徒 から 使 徒 の 後 継 者 にして 典 礼 の 実 践 者 たる 主 教 へと 移 行 し、 聖 母 子 と 主 教 の 中 間 帯 に 聖<br />

餐 の 起 源 と 意 義 を 語 る「 使 徒 の 聖 体 拝 領 」が 挿 入 される。こうしてビザンティン 聖 堂 を 特 色 づけ<br />

る「 聖 母 子 像 + 聖 体 拝 領 + 典 礼 を 捧 げる 主 教 」というアプシスのプログラムが 完 成 し、 後 期 ビザ<br />

ンティンにも 受 け 継 がれた。 後 期 のアプシスで 問 題 となるのは 選 択 されるイコノグラフィの 変 化<br />

である。 中 期 ビザンティンにおいてアプシスには 聖 母 子 坐 像 を 配 するプログラムが 主 流 だったが、<br />

後 期 になるとオランスの 聖 母 が 主 流 となる。ある 図 像 が 聖 堂 に 特 定 の 座 を 得 たのは 場 所 と 図 像 の<br />

両 者 に 有 機 的 な 連 関 が 見 いだされた 結 果 と 考 えられる。オランスの 聖 母 はいかなる 理 由 をもって<br />

アプシスの 図 像 に 相 応 しいとされたのか。 先 に 指 摘 した 後 期 ビザンティン 人 の 合 理 性 によるもの<br />

なのか、あるいはまた 別 の 理 由 があるのか、これも 今 後 の 検 討 課 題 となろう。また「アムノス」<br />

も 1200 年 前 後 から 前 時 代 の 祭 壇 や「 空 の 御 座 ( エティマシア )」に 替 わって「 典 礼 を 捧 げる 主 教 」<br />

の 中 心 モティーフとなった 図 像 である。 現 実 の 典 礼 空 間 を 模 した 祭 壇 、あるいは 終 末 論 的 な 文 脈<br />

にある「エティマシア」から、 聖 餐 のリアリティを 映 し 出 す「アムノス」への 移 行 の 背 後 にどん<br />

な 背 景 があるのか、そして 何 ゆえ 祭 壇 や「エティマシア」から「アムノス」へとかくもスムース<br />

に 移 行 しえたのかも 興 味 深 い 問 題 である。<br />

他 方 、プロテシスとディアコニコンのプログラムは、これらが 中 期 ビザンティンにおいて 初 め<br />

て 明 確 な 機 能 を 付 与 されたこともあってか、 副 アプシスのプログラムは 中 期 の 段 階 では 定 まって<br />

いなかった。 中 期 ビザンティンの 時 点 で 空 間 と 儀 式 の 象 徴 性 と 図 像 の 意 味 が 一 致 させたプログラ<br />

ムはカッパドキア 以 外 に 見 いだすのは 稀 である。 後 期 になると 副 アプシスのプログラムに 関 して<br />

方 向 性 が 二 つの 方 向 性 が 定 まってくる。 一 つは 空 間 の 位 階 性 を 重 視 するプログラムであり、ここ<br />

にステファノスをはじめとする 輔 祭 聖 人 が 配 されるようになる。これはアプシス 下 層 部 に「 典 礼<br />

を 捧 げる 主 教 」を 置 くプログラムが 定 型 化 したことの 余 波 と 考 えられる。もう 一 つは「 悲 しみの<br />

人 」を 置 くことにより「 空 間 = 儀 式 = 図 像 」の 一 致 を 図 ろうとするプログラムである。 聖 体 を 準<br />

備 するプロテシスに 受 難 を 示 唆 する「 悲 しみの 人 」を 配 して 犠 牲 という 概 念 をことさら 強 調 する<br />

が、 同 じく「 聖 体 = 犠 牲 」という 概 念 を 視 覚 化 した「アムノス」の 導 入 が 重 なるのは 興 味 深 い 点<br />

である。ここに 後 期 ビザンティン 人 が 聖 餐 をどのように 捉 えるようになったのかが 反 映 されてい


144<br />

るように 思 われる。この 点 については 中 期 と 後 期 の 典 礼 註 解 を 比 較 検 討 して、こうしたプログラ<br />

ムが 成 立 した 思 想 的 な 背 景 を 探 る 必 要 があるだろう。<br />

ビザンティン 人 は 日 々 同 じ 空 間 で 同 じ 儀 式 を 繰 り 返 し、 変 化 を 恐 れるかのように 同 じ 図 像 を 描<br />

き 続 けてきた。しかし、 巨 視 的 な 視 点 からすれば、 儀 式 の 意 義 を 図 解 するプログラムは 日 々の 実<br />

践 を 通 じて 数 世 紀 かけて 錬 磨 されてきたのである。それは 緩 やかではあるが、ダイナミックなビ<br />

ザンティン 人 の 思 考 様 式 の 変 容 をも 表 象 しているのである。<br />

[ 図 版 出 典 ]<br />

図 1、6: 早 稲 田 大 学 益 田 朋 幸 教 授 撮 影<br />

図 3: G. A. Wellen, Theotokos: eine ikonographische Abhandlung über das Gottesmutterbild in<br />

frühchristlicher Zeit, Utrecht/Antwerpen, 1960, p. 170, fig. 31a.<br />

図 4: 早 稲 田 大 学 伊 藤 怜 助 手 撮 影<br />

図 20: M. Vassilaki and N. Tsironis, “Representation of the Virgin and Their Association with the Passion<br />

of Christ," in ed. by M. Vassilaki, Mother of God: Representation of the Virgin in Byzantine Art, exh. cat.,<br />

Athens, Milan, Benaki Museum, 2000, p. 484, pl. 83b.<br />

他 は 筆 者 撮 影 。<br />

[ 付 記 ] 本 稿 は 平 成 24 年 度 科 学 研 究 費 若 手 研 究 (B)「 後 期 ビザンティン 聖 堂 (13 ~ 15 世 紀 )における 儀<br />

礼 化 の 進 展 」( 代 表 早 稲 田 大 学 菅 原 裕 文 )、 及 び 平 成 24 年 度 科 学 研 究 費 基 盤 研 究 (B)「バルカン 半 島<br />

中 部 における 文 化 的 多 様 性 の 歴 史 的 研 究 」( 代 表 早 稲 田 大 学 益 田 朋 幸 )による 研 究 成 果 の 一 部 をなす。

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